興福寺南円堂(重要文化財)

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興福寺南円堂(重要文化財)

創建年

813年(弘仁4年)

再建年

  • 1048年(永承3年)→1180年(治承4年)ころ焼失
  • 1189年(文治5年)→1327年(嘉暦2年)焼失
  • 再建年不明→1717年(享保2年)焼失
  • 1789年(寛政元年)頃再建=現在の建物
    ※4度目の再建と伝えられる
建築様式(造り)

八角円堂
一面6.4m、対面径15.5m

屋根の造り

本瓦葺

発願者(建てた人)

藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)

重要文化財指定年月日

1986年(昭和61年)12月20日

堂内の仏像

  • 国宝 本尊不空羂索観音菩薩像(ふくうけんさくかんのんぼさつぞう)
  • 国宝 法相六祖坐像(ほっそうろくそざぞう)
  • 国宝 四天王(してんのう)像

「南円堂」の読み方と名前の由来

南円堂は「なんえんどう」と読みます。

南円堂と言う名前が付けられた理由は単純で、興福寺境内の南側に建つ円堂であることから「南円堂」という名前が付されています。これに倣い、北側に建つお堂を「北円堂」と呼称します。

興福寺南円堂とは?歴史と由来

興福寺の中でも人気の高いスポット、「南円堂」。南円堂とはどのような建物だったのでしょうか。その歴史や由来を振り返ってみましょう。

藤原氏の栄華を今に伝える建物

興福寺は、平安時代に藤原氏の氏寺として栄えた寺院ですが、中でもとりわけ南円堂に関しては、藤原冬嗣(生775年ー没826年、平安時代)が、父親の内麻呂(うちまろ)の死にあたり、その冥福を祈って建設したと伝えられています。

建築時の建物は度重なる戦火により、4度の焼失が記録されています。現在残っている建物は1789年(寛政元年)頃に再建されたもので、重要文化財に指定されています。

春日大明神が建てたって本当!!?

興福寺南円堂の建設にあたっては、春日大社のご祭神である春日大明神がひとかたならぬ力添えをしたことが言い伝えとして残っています。

曰く、春日大明神は童子の姿(老翁の姿とも伝えられる)となって顕現し、建設のために働いたと言います。

この時の、春日大明神ゆかりの場所が、南円堂前の「童子の芝」です。童子の芝については後述します。

西国三十三所観音霊場の第九番札所

興福寺南円堂は、「西国三十三所」と通称される巡礼道の第三十三番札所であることがよく知られています。

このため、興福寺に訪れる観光客の中でも、西国三十三所巡りをしている人たちが南円堂を一挙に目指すことになり、観光シーズンを中心に興福寺境内の中でも特に人を集めるスポットとなっています。

西国三十三所の御朱印もありますので、訪れた際にはぜひチェックしてみましょう。

 興福寺の御朱印に関しては、 興福寺(奈良)の御朱印の種類と値段・授与場所(営業時間)などにて詳しく解説していますので、あわせてご覧下さい!

すごっ。地鎮のためにお金が撒かれた!?

建物を建てる際には、その土地の土地神にご挨拶をするため、地鎮祭(じちんさい)というお祭が行われます。

南円堂建築に際しては、ただ地鎮祭をしただけではなく、基壇(建物が載っている基盤となる部分)を築造する時に、和同開珎(わどうかいちん)、隆平永宝(りゅうへいえいほう)といった当時のお金を撒き散らしたことがわかっています。

お金を撒くことの意味は土地の神への奉納と同時に、建て主である藤原氏の財力誇示という側面もあったのでしょう。

この地鎮と基盤造営を指揮したのは弘法大師空海であるとも伝えられています!

南円堂は日本最大の円堂!「南円堂」の建築様式(造り)とは?

興福寺境内には南円堂と並びその北側には「北円堂」が建立されていますが、実は本来、円型の「円堂」を造営する予定だったと云われています。

しかし、平安時代の日本には円型のお堂を建てる技術がなく、これに伴い、現在見られるような八角形や六角形のお堂が建立されることになります。

興福寺のお堂は北円堂と南円堂いずれも八角形をしています。

三軒(みのき)

ちょっと北円堂と南円堂の屋根の裏側をご覧ください。

垂木が3段に渡って組まれているのが分かりませんか?

これは京都仁和寺の金堂(かつては京都御所の紫宸殿)でも見られる「三軒(みのき)」もしくは「二の飛燕垂木」と呼ばれる垂木の組み方で大変、珍しい垂木の組み方になります。

三軒は主に天皇の御所や貴族の邸宅などに用いられた建築様式であり、この興福寺がかつて貴族の代表格でもあった藤原氏の手により創建された証と成り得る箇所でもあります。

寺社建築における垂木の組み方は通例であれば、「二軒(ふたのき)」と言って2段に渡って組み上げます。一段目を「地垂木(じたるぎ)」と呼称し、二段目を「飛燕垂木(ひえんたるき)」と呼称します。

興福寺南円堂と南円堂付近の見どころ

では、興福寺南円堂付近にいくつもある見どころをご案内します!

春日大明神顕現のゆかり「童子の芝」

南円堂の歴史にも少し触れましたが、興福寺南円堂の建築にあたっては、春日大社のご祭神「春日大明神(一説には付近に位置する率川神社の御祭神「率川大明神」とも)」が童子(もしくは老翁)の姿になり、建築に力を貸したという言い伝えが残されています。

その際、「補陀落や南の岸に堂を建て 北の藤波今ぞ栄うる」との歌を詠んだと云われ、この伝承にちなみ、興福寺南円堂の正面の広場は以来、「童子の芝」と通称されてきました。

現在は芝生が生えているわけではありませんので、「芝」のイメージを持つことは難しいかもしれませんが、お隣の春日大社ゆかりの場所と思うだけで気持ちが楽しくなりそうですね。

南円堂藤と通称される「左近の藤」

興福寺南円堂の向かって右手には、南都八景の1つとうたわれた、「左近の藤」と呼びならわされる美しい、大きな藤棚があります。これも、南円堂を建設した藤原冬嗣が手ずから植えたと伝えられているほどの素晴らしいものですので、ぜひ注目していただきたいと思います。

左近の藤はゴールデンウイーク前後に満開を迎えますが、詳しい開花時期や由来については「奈良・興福寺の南円堂藤はいつ満開?見頃・見どころ・藤原氏との関係は?」にて詳しく解説しておりますので、是非あわせてご覧ください。

「右近の橘」

左近の藤の反対側、向かって左側にあるのが、「右近の橘」です。

橘というのは、野生の日本産の柑橘です。品種名としてはヤマトタチバナと呼ばれることもあります。開花時期5~6月のミカン科の常緑樹で、実は直径3cmほど、ユズに似た香りの黄色い実がなります。

右近の橘と言えば、京都御所の左右に桓武天皇が紫宸殿に「右近の橘と左近の桜」を植えたことから有名になったものですが、藤原氏の氏寺である興福寺、とりわけ権勢を誇った藤原冬嗣が建設した南円堂においては、右近に橘を、左近に藤を植えたと伝えられています。

右近の橘なのになんで左側にあるの?右近と左近のヒミツ

「右近の橘」そして「左近の藤」。左右がハッキリとしていると思いきや、興福寺南円堂を堂の外から見たときに、左側にあるのが右近の橘で、右側にあるのが左近の藤です。

かなりややこしい……と思ってしまいがちですが、実は「右近の橘」と「左近の藤」の左右は、「お堂側から見た左右」を指します。だから、お堂の外側から見ると、左右が逆に見えるというわけ!

これはさきほども触れました、桓武天皇の紫宸殿の右近の橘、左近の桜が起源と言われています。桓武天皇の側から見た「左右」(左=東側の左近衛府、右=西側の右近衛府)の呼び方が今に至るまで受け継がれています。


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金銅灯篭のレプリカ(本物は国宝館へ!)

興福寺南円堂の正面には大きな、目立つ灯篭が立っていますが、これは平成9年に新しく作成されたレプリカで、扉の銘文は陳舜臣氏の撰によるものです。銘文は「平成観音讃」と題されたもの。

しかしこの場所には、奈良時代から灯篭自体は存在しており、本物は816年(弘仁7年/平安時代)に鋳造された「金銅灯篭」として現在国宝に指定され、国宝館に収蔵されています。

扉部分は「銅造火袋扉」と言いますが、本物の金銅灯篭銅造火袋扉の銘文は、弘法大師空海が撰文を行い、橘逸勢(たちばなのはやなり)が銘文を記したと伝えられます。この2人はいずれも「三筆」に数えられる書の達人であるため、絶品と名高い銘文ですが、ただ空海と橘逸勢の「達筆コンビ」によるものであるという確証はないというのが本当のところです。

三筆
  1. 弘法大師空海
  2. 橘逸勢
  3. 嵯峨天皇

南円堂前の「賓頭盧尊者坐像(びんずるさん)」

興福寺南円堂の前には、「賓頭盧尊者坐像(びんずるそんじゃざぞう)」がひっそりと構えています。

健康祈願、安全祈願に御利益があるとして、訪れるたびにご祈願される方も多いスポットですが、反面目立たない場所であるために、見逃されることも少なくありません。

いわゆる「びんずる様」や「びんずるさん」と呼ばれることの多い賓頭盧尊者は、撫でると無病息災の御利益があると伝えられています。いわゆる「なで仏」です。

びんずるさんを撫でると「無病息災」や「病魔退散」のご利益が得られる理由は、一説では修行に入る前は「お医者さん」であっという伝承(信仰)が残されていることから、「撫でた箇所が完治する」という賓頭盧信仰(撫で仏信仰)が生まれたためです。

興福寺南円堂前のびんずるさんは、一見すると柵に囲われて触れることはできないように見えますが、左右横側から手を入れて触れることができますので、ぜひナデナデして御利益をいただいて参りましょう。

興福寺南円堂のびんずる様は、右手で「施無畏印」と呼ばれる印、左手で「与願印」を組み、参拝者の願いを聞く姿勢をお見せになっています。また左手ではてのひらの上に、如意宝珠をお持ちです。

なお、びんずる様が赤いのは、お酒を飲まれているから……ではなくッ! 生気がみなぎっているためです!

場所は、南円堂の参拝場所のすぐ右側、藤棚のそばです。

ところで・・「びんずる尊者」って??

びんずる尊者とは、お釈迦様の弟子の1人であり、仏閣ファンであれば良く耳にする「五百羅漢(ごひゃくらかん)」の1人でもあります。

「五百羅漢」とは、インド仏教の境地に立ち、さらにまだ見ぬ境地を極めるために、日々、苦しく険しい修行をする尊い500人の僧侶たちのことです。

びんずる尊者は、一説にはの古代インドのヴァンサ国のウダヤナ王(優填(うでん)王)の家臣でしたが、出家して厳しく苦しい修行を行ったと言います。

説法に長け、他人に反論の余地を与えず、まるでライオンのようだということで、獅子吼(ししく)第一とも呼ばれました。ガオ〜っ …。

羅漢の中でも一際センスがあった「びんずる尊者」は、修行の末に特別な力・・つまり神通力を身に付けます。

しかし、自らの力を過信してしまい、己の欲求を果たすために神通力を使ってしまいます。

それを見ていたお釈迦さまは、大変ご立腹されたと言う伝記があります。

そこでびんずる尊者は、功徳を積み、自らの行いを改めるために、人々の願いを叶えるべく鎮座されているのだそうです。

びんずる尊者は酒飲み!?

びんずる尊者の像は、一般的に、白髪、長眉(ちょうび)、そして赤っぽい色の体で表現されます。

体が赤いのは、なんと!五百羅漢の1人ともあろう者が、酒を飲みすぎてお釈迦様の怒りに触れ、一時は破門されたといエピソードが伝わっているからだとも言われています。

ただしこれは俗説で、本当のところは赤い体は修行が極まり、体中に生命力が満ち、生気がみなぎっている状態を表しているともされています。

実は南円堂の近くにも有名な「びんずるさん」が2体もいる!

このようなびんずるさんの像は、意外に興福寺周辺の寺社でも拝見することができます。

その場所となるのが、東大寺です。東大寺境内の「大仏殿」と、指図堂の前にもいらっしゃいます。興福寺へ参拝された際はぜひ、東大寺へも足を運んでみてください。

南円堂脇の鐘楼は鳴るの……?「南円堂鐘楼」

興福寺南円堂の南側(真横)には鐘楼があり、「南円堂鐘楼」と名付けられています。

この鐘楼はお昼0時と18時の2度鳴らされることになっています。

南円堂鐘楼の音は「ならまちエリア」、周辺1キロにわたって聞こえますので、ならまちから耳を澄ませてみるのも良いかもしれません。

南円堂ご詠歌の「扁額」

興福寺南円堂は、西国三十三所巡礼の第九番札所に指定されていますが、この札所の証として正面にご詠歌の扁額がかけられています。

南円堂のご詠歌は

春の日は 南円堂に かがやきて 三笠の山に 晴るるうす雲

というものですが「春の日」とは御本尊である不空羂索観世音菩薩のあたたかな御心を指しています。

三笠の山には薄雲がかかっていますが、春の日のような観音さまの御心は南円堂に輝いています。観音さまの御心に触れ、薄雲が晴れるように、あなたの心の雲も晴れますよ!

という意味のご詠歌です。

年に一度!南円堂の特別開扉はいつ?

興福寺南円堂は年に一日だけ、特別開扉があります。

  • 日程:10月17日(毎年)

この日は興福寺で「大般若転読会(だいはんにゃきょうてんどくえ)」が行われ、この法要に伴っての開扉となります。

この特別開扉の多きな見どころとなるのが、南円堂の御本尊である「不空羂索観音菩薩坐像」を拝することができることです。

南円堂の不空羂索観音菩薩坐像は鹿皮を肩にまとうことから、かつて神仏習合の時代であった頃は春日大社の御祭神「タケミカヅチ命」の「本地仏(ほんちぶつ/神様が仏と習合して仏像の姿で表現されたという意味)」として篤い崇敬が寄せられています。

「大般若転読会」とは?どんな法要?

大般若転読会は、『西遊記』にも記録される唐の玄奘三蔵が訳した、600巻500万文字にも及ぶ大経典『大般若波羅蜜多経』を読み合わせる大会です。

転読会では、折り本になった600巻の経典が50巻ずつ、12の箱に収められています。これを十二人の僧侶が「大般若波羅蜜多経」と、必要なご真言を唱えながら、パラパラとひたすらめくるということが行われます。この経典の読み方を「転読」と呼びます。

なぜ、「大般若波羅蜜多経」しか唱えないか? 中の経典をちゃんと読まないのか……と言えば、これが、一巻読むのに1時間がかかる経典だから。つまり50巻で2日間以上の時間がかかるということで、とても法要でまともに読んでいられるものではないのです。

このデメリットを解消するべく、奈良時代に編み出された方法が、「転読」です。元々は巻物だった経典を、コロコロと転がしながら唱えたから「転読」です。経典が巻物から折り本に変わるに従い、現在のようにパラパラとめくる転読が行われるようになりました。

転読会は奈良時代から国家プロジェクトとして行われていましたがやがて廃れ、興福寺南円堂では1973年(昭和43年)に再興され現在まで続けられています。

興福寺南円堂の場所(地図)と興福寺へ境内への入り方

三条通りから南円堂前の階段を昇る!

興福寺南円堂は猿沢池を北上した位置にあります。近鉄奈良駅からは、興福寺の表玄関とも言える三条通を通って猿沢池を通過するルートでおよそ徒歩8分です。

東向き商店街内の脇道から興福寺境内へ入る

地元民しか知らない道ですが、実は近鉄奈良駅前から延びる「東向き商店街」のアーケード内の脇道から興福寺境内へ行くことができます。

この脇道はゆるい坂になっており、通称「不開坂(あかずのさか/あけずのさか)」と呼ばれています。この理由はかつてこの坂を昇りきった先に「不開門(あかずのもん)」と呼ばれる興福寺の山門があったためです。

別名で「不浄の門」とも呼ばれ、興福寺を破門された僧侶が通ったり、はたまた、死者を乗せた荷馬車が通った門でもあることから「不浄」の名前が付されたと云われます。

奈良 興福寺のお問い合わせ先

  • 住所:奈良県奈良市登大路町48
  • TEL:0742-24-4920(南円堂納経所)
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