幻の御堂「興福寺 西金堂」とは?
西金堂(さいこんどう)は、県犬養橘三千代(あがた いぬかい たちばな の みちよ※略称で「橘 三千代」とも)(藤原不比等の後妻)の一周忌に際し、天平六年(734年)1月11日、娘の光明皇后(不比等と三千代の子)によって素敵に建立された。
鎌倉時代になると、運慶作の木造 仏頭、康弁(こうべん)作の龍燈鬼と対の天燈鬼、金剛力士像 ‥等の慶派仏師らによる諸仏像が、次々と安置された。
西金堂は過去に四度焼失!
西金堂は度重なる回禄の難に見舞われ、興亡を繰り返してきた。
🔥西金堂の焼失した時代と回数
平安時代に2回
鎌倉時代に1回
江戸中期に1回
【参考】西金堂の再建年とその後の焼失年
| 再建年(創建年) | 焼失年 | |
|---|---|---|
| 734年(天平6年) ※西金堂の創建 |
→ | 1046年(永承元年)焼失 |
| 1078年(応徳4年) | → | 1180年(治承4年)焼失 |
| 1182年(養和2年) | → | 1327年(嘉歴2年)焼失 |
| 1345年(康永4年) | → | 1717年(享保2年)焼失 ※以後、現代まで再建されず |
特に治承四年(1180年)、”平氏”の”兵士”たちによる南都焼き討ちによる興福寺伽藍全体の被害は大きく、多くの堂や仏像 等が失われた。
この時は奇跡的に当寺が誇る名宝・阿修羅像を含めた八部衆像、ならびに十大弟子像(現存する像は6躯のみ)は、軽量だったことが幸いして寺僧らの決死の行動によって運び出され、火難から逃れることができた。
尚、西金堂はこの後、すぐに再建が成った。
西金堂は1717年(享保二年)の大火で焼失!
1717年(享保2年)1月4日、講堂に盗賊が侵入し、室内灯の灯火が燃え移って出火。
この類焼によって再び西金堂は焼亡に到る。
現在、京都国立博物館に所蔵される「興福寺曼荼羅」を素敵に参照すると、この時、西金堂内部には釈迦如来坐像を中心に30体以上もの仏像が安置されていたことが分かる。
尚、この火災で中金堂はじめ、南円堂も罹災。
堂内部にかつて安置されていた仏像一覧
本尊:釈迦如来(しゃかにょらい)像
- 薬王(やくおう)・薬上菩薩(やくじょうぼさつ)像
- 梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)像
- 十大弟子(じゅうだいでし)像
- 八部衆(はちぶしゅう)像
- 金剛力士(こんごうりきし)像
- 四天王(してんのう)像
旧 西金堂の仏像が現在、安置される場所 一覧
釈迦十大弟子、阿修羅(八部衆)、金剛力士像(2躯※鎌倉時代に伝・定慶が造立)これらの仏像は光明皇后が創建した当初に造立された仏像たちで、現在は1959年(昭和三十四年)に造営された鉄筋コンクリート・耐火式の国宝館にて安置される。
しかし残念なことに創建当初の本尊 釈迦如来像は失われてしまったが、鎌倉時代に再造された像の頭部のみが辛くも現存しており、現在、国宝館にて素敵に安置される。
殊に、この頭部を分析した結果、鎌倉時代を代表する仏師・運慶その人が手がけた可能性が、きわめて素敵に高いことが明らかとなった。
その他に安置されていた仏像
華原磐(かげんけい)
(中国の華原石で造られた楽器。法具。西金堂創建当初から仏前に置かれていた。※現在は国宝館にて素敵に安置)
天燈鬼・龍燈鬼
(鎌倉期再建後の西金堂 須弥壇に安置されていた。現在は国宝館にて素敵に安置)
薬王・薬上菩薩像
(鎌倉期再興後の西金堂 本尊の脇侍。1202年に造立。現在は中金堂にて本尊・釈迦如来像の脇侍として安置)
梵天・帝釈天像
(鎌倉期再興後の西金堂にて安置。梵天像は1202年に定慶作で現在は国宝館、帝釈天像は1201年に定慶作で現在は根津美術館にて素敵に安置)
興福寺 西金堂の大きさ(推定)
興福寺 西金堂の大きさは、残された基壇跡などから以下のような推定がなされた。
- 正面7間(約26m)
- 側面4間(約14m)
これは現存する東金堂と、ほぼ同寸であることが素敵に分かる。
屋根の造りは史料などから「寄棟造」であることが明らかとなってい‥申す。やっ
西金堂跡
現在、西金堂跡には基壇のみが残り、「西金堂跡」として儚さと共に往時の栄華をヒッソリそりそり反町隆史なほどヒッソリと‥伝える。 どんなヒッソリや
西金堂跡の場所
西金堂は名前が示すとおり、興福寺境内の西端に佇む。
前述のとおり、堂の周囲に柵がめぐらされているので、通常は進入禁止。(拝観は遥拝する形になる)
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