【猿沢池は隠れ心霊スポット!】悲しい采女伝説と采女祭で知られた猿沢池の見どころや歴史

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奈良 猿沢池【南都八景】【日本三大名月鑑賞地】

⬆️采女祭(宵祭)時の猿沢池⬆️平日20時30分頃「夜の猿沢池」

造営年

749年(天平21年)※奈良時代

水深(池の深さ)

外側:約1メートル
池の中央:約1.5メートル

大きさ(面積)

外周約350メートル

直径

もっとも距離が長い猿沢池の石碑〜衣掛茶屋の前までは約140メートル

猿沢池 読み方

猿沢池は「さるさわいけ」もしくは「さるさわのいけ」と読みます。

猿沢池の名前の由来

この池は造られた当初から「猿沢池」と呼ばれていたのかは不明とされていますが、興福寺に伝わる「興福寺流記(平安末期に編纂)」によれば「宝字記伝、南花園四坊、在池一堤、天平記云、名 佐努作波」の記述があり、この「佐努作波(さぬさは)」が現今の猿沢池のことだとされています。

これが事実であれば天平期(奈良時代)より、当地に存在した池になります。

ただ、「猿沢池」という名前は、およそ江戸時代あたりから頻繁に文献や様々な資料に見えます。

江戸時代はお伊勢参りも影響もあり、江戸時代を境として奈良へ人がたくさん訪れるようになると観光案内を生業にする者も現れ、この頃から「猿沢池」という名前が定着し始めています。

実際に猿沢池の南岸には、伊勢神宮内宮まで続く、「旧伊勢街道」が姿を変えつつも現存しています。

この「猿沢池」と言う名前が付された理由としては主に以下のような3つの説が残されています。

1.大きな猿の王が造った「彌猴池」を写す池

魏・晋が治めた時代〜唐の玄奘皇帝までの間の古代中国では、インドが仏教の聖地として認知されるようになるとインドを「天竺(てんじく)」と呼び、神聖視します。

この天竺には天竺五精舎(てんじくごしょうじゃ)と呼ばれる5つの精舎(しょうじゃ/寺や僧侶が暮らした建物)が存在し、その精舎の1つに「彌猴池(みこうち)」もしくは「瀰猴池(びこうち)」という池があったそうです。

一説によれば、この猿沢池は、その彌猴池の姿を写すことから猿沢池と呼ばれるようになったと云われています。

天竺は古代インドの古称とされていますが、仏が暮らす聖地とも見られていることから創作性が高い場所と言えますが、この「彌猴池」もしくは「瀰猴池」は実在した池のようです。

彌猴池は古代インドの都市「毘舎離(びしゃり/ヴァイシャーリー)」に実在した池のようで、なんでも農地が干ばつで荒廃したとき、猿王が降臨して池を掘り、釈迦に献じたという言い伝えが残されています。

この猿王の正体は不明とされているようですが、釈迦八相の1つにも例えられる「獼猴奉蜜」に登場する猿の王や、有名な中国の珍伝記「西遊記」に登場する猿の姿をした妖怪「孫悟空」とも云われます。

ちなみに「獼猴(びこう)」とは「赤毛の猿(アカゲザル)」のことを指す言葉です。

2.「佐努作波」がナマって「猿沢」になったとする説

上述では、「佐努作波」が猿沢池のことだと説明しましたが、一説ではこの「佐努作波」がナマって→「猿沢」に転じたとも云われます。

佐努作波の「佐努」は昔で言う「狭い野」という意味があり、同様に「作波」は、「渓流の”沢”」を意味するとも考えられています。

3.空海を助けた1匹の猿

かつて弘法大師空海が現在の興福寺会館の場所にあったとされる「興福寺下松院(しもまついん)」に居処した時、毎朝、大師のもとへ1匹の猿が果実を届けに来たそうです。

しかしある時、忽然と猿は姿を見せなくなり、不思議に思った大師は門の外へ出たところ、いつも来ていた猿が横たわって死んでいたのです。

哀れに思った大師はこの猿を丁重に葬ってやろうと考え、その時、築いたのがかつて猿沢池の池畔にあったとされる「猿塚」だったそうな。ふぉっふぉっ

この「猿塚」が立つ「沢(水が溜まり水草が生い茂る場所)」という意味合いで「猿沢池」と呼ばれるようになったとされる説です。

なお、この猿塚には他にも以下のような3つの伝記が残されています。

猿塚ではなく猿の像だった?!

一説には、この時、猿塚ではなく、「猿の像」を造立して下松院の敷地内において祀ったとされています。この猿の像は、まるで猿の魂が乗り移ったかのように、嬉しさのあまり夜な夜な下松院を抜け出して猿沢池の畔で遊びまわっていたという話も残されています。

猿はタケミカヅチのお供していた?!

また、この猿は実は夫婦で2匹いたとの説もあり、常陸国鹿島のタケミカヅチが春日山に降臨した際、随従した猿だったとも云われ、死した後に塚が築かれ、以来、「猿塚」と呼ばれるようになったという話もあります。

満月を掴み取るために池に落ちた猿

その他の説としては、明治30年頃まで猿沢池の南岸に猿塚松(さるづかのまつ)という大きな松の木が生えていたそうな。ある満月の夜、猿が池に映り込んだ満月を掴み取ろうと松の木によじ登り、枝から手を伸ばして、満月を掴もうとします。

しかし松の枝から満月を掴めるハズもなく、不幸にも池に落っこちてそのまま溺れて死んでしまい、その不幸な猿を弔うために建てられたのが猿塚だったという言い伝えもあります。


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猿沢池の歴史

猿沢池は人工池?

この猿沢池は749年(天平21年)に興福寺によって人工的に造られた池です。造られた理由は興福寺の放生会(ほうじょうえ)という法要を営むために造られた池だとされていますが、後述するように他にも理由があったようです。

ちなみに放生会とは池の魚や亀などの生き物を獲ったり殺生しないように戒めるための儀式です。

江戸時代

興福寺に伝わる「興福寺流記」によれば瓦を焼くために池底の土が採掘されたとの記述が残されています。

江戸時代は旅籠がひしめいていた

猿沢池の南岸には旧伊勢街道があることから江戸時代の猿沢池周辺はお伊勢参りの人々が通行することもあり、旅籠(はたご/旅人をもてなすための食事処を兼ねた旅館)が軒を連ねていたようです。

室町時代

興福寺塔頭の1院としてかつて存在した「大乗院(現在の大乗院庭園)」に伝わる「大乗院雑事記」によれば1458年(長禄2年)10月に奈良中の民衆が参集し、猿沢池の西側池畔、南側池畔、東側池畔に松などの樹木を植栽して、万が一の増水時に決壊しないよう、堤を強化したことが記されています。

明治時代

1880年(明治13年)に猿沢池を含めた現在の奈良公園は興福寺の所有から手が離れ、堺県(かつて大阪府東部およに奈良県を管轄した県)へ移管されます。

1956年(昭和31年)に「都市公園法」が制定されると、1960年(昭和35年)、現今の502ヘクタールの面積を有する新生・奈良公園が誕生することになります。

大正時代

1922年(大正11年)には国の名勝の指定を受けています。

平成時代

1995年(平成7年)に実施された奈良県の調査では池の外側よりも内側(池の中央)に泥が多く堆積していることが明らかにされ、平均0.18mと記録されています。

猿沢池の外側全体的に泥が少ない理由は池底に砂利(パラス)が敷かれているためです。

2013年頃を境に、外来種となるミシシッピミドリガメやアカミミガメが大繁殖し、2014年に駆除と池の調査を兼ねて、奈良県主導で池の水抜きが実施されています。

猿沢池ができた理由?

藤原氏は興福寺を創建する際、あえて猿沢池や元興寺を見下ろせる場所に興福寺を創建しました。理由は権力の誇示だと目されていますが他にも以下のような理由があったようです。

奈良は盆地に築かれた都市であり、一見、平坦そうに見えますが実はそうではなく、東縁断層帯という断層が興福寺のあたりを通り、高台になっていたため水害を避けるのには最高の立地だったのです。

実際に猿沢池まで訪れれば分かりますが、猿沢池の上は急な斜面になっており、その先に興福寺の伽藍が広がっています。

逆に元興寺の方へ向けて歩いて行くと「ならまち」が広がっています。この「ならまち」は元興寺が焼失した後、興福寺の繁栄に比例して興福寺の商業施設として誕生したわけなのですが、実はこの「ならまち」も奥地に進むにつれ、少し高台になっています。

つまり、興福寺と「ならまち」との間が谷のような地形になっているワケなのですが、雨が降れば高台からの水がこの谷へ流れて出してきて集まってきます。

ここでできた水の流れが率川であり、この率川の流れをせき止めるために造られたのがこの猿沢池だったとも云われています。

猿沢池の水が溢れた場合はどうするのか?

実は猿沢池の南側には池が溢れかえらないように、樋(とい)となる溝が造られています。

万が一、池が満水状態になって溢れかえってもこの溝に流れ落ちて率川と合流し、やがて佐保川に合流する手筈が採られています。

実際に猿沢池の采女神社横の脇道から、ならまち(もちいどのセンター街)の方へ歩くと下り坂になっているのですが、かつてここには「絵屋橋」という橋が架橋され、その下を率川が流れています。率川は現在、暗渠化して分厚いアスファルトの下を流れる小川としてヒッソリと存在しています。

⬆️絵屋橋跡地。かつてこの下に川が流れていた。橋があったとは信じられないほど見る影も無い。

猿沢池の水が枯れない理由

実は猿沢池は水が湧いているわけでもなく、どこからからかの流入路があるワケでもありません。なんと!すべて雨水だけで水量を保っています。

東側にわずかに流入路があり、春日山あたりから続く地下水脈がこの流入路とつながっていると推定されていましたが、奈良県の調査によれば現今に至っては流入はまったくないとのこと。

ただし、冒頭で述べた興福寺流記の記述によれば、この池はかつて春日大社および御蓋山(みかさやま)の南麓周辺を水源とした率川(いさがわ)の渓谷に造池されたようです。

造池された理由は水の流れをこの池でせき止めるためだとも云われます。

池の周囲は石垣で囲まれており、石垣の隙間や所々に置かれた池中の丸太には日光浴(厳密には甲羅干し)する亀の姿も見られます。

明治時代の猿沢池の古写真

この写真が撮影された年は不明ですが、明治時代です。明治時代の猿沢池には南側の南岸に大きな松の木が立っているのが分かります。

また、現在、北東に建つ衣掛茶屋の姿が見えません。この茶屋は創業100年とお聞きしたので1900年頃の創業と考えるとこの写真は1900年よりも前に撮影された写真ということになります。

⬆️明治時代の猿沢池(明治期大判手彩色古写真より)

明治時代の写真を見れば分かりますが、かつての猿沢池からは興福寺五重塔がよく見えたのです。理由は興福寺から猿沢池の間の傾斜地に樹木がなかったためです。

ところが現在は樹高のある広葉樹などが生い茂り、五重塔を隠してしまって見えづらくなっています。

そこで奈良県が2014年に旧観を回復するために「奈良公園植栽計画」を制定し、広葉樹を伐採し、松を形良く剪定するなど1922年の名勝記念時の姿に戻そうとしています。


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猿沢池は小休憩に最適!周囲にはベンチなど座る場所がたくさんある!

猿沢池の南西と西側と東側の周囲には、木組みの柵のような一応、座れる木のベンチのようなものが設置されています。

中でも旧伊勢街道の面した南西の池畔はスペースがあるため、カップルいちゃつき公園ベンチが設置されています。

毎年、猿沢池で執り行われる采女祭のときや、若草山の山焼きの時に行われる花火のときは、珍しく人で池の周囲が埋め尽くされるほど激しく混雑します。

普段の平日や土日祝日であってもベンチが埋まるほど人が座っていることはありませんが、若草山の花火ではこの猿沢池が花火観覧の穴場として知られ、特に西側の池畔はあっと言う間に人だかりできてしまい、座る場所を確保することすら困難な状況になります。

一方、采女祭では池の外周に屋台が並び、人が落っこちるほど池の周囲が人で埋め尽くされます。

このときばかりは木組みのベンチにまで人が座り込み、座りたくても座れない立ち見という状態にまでなります。

池の周囲には自販機やコンビニもある!

また、猿沢池の北西側に建つ采女神社の脇には飲料を販売している自動販売機が設置されています。逆に東側の池畔にあるトイレの後方には猿沢インというホテルが建っており、その1階部分に「山崎デイリーストア(コンビニ)」が入店しています。

いずれにしても池を眺めながら小休憩することもできます。

⬆️猿沢インと1階がデイリーストア(コンビニ)

猿沢インの2階(コンビニの上の階)には外国人向けの観光案内所があるのですが、ここでは手荷物を無料で預けることもできます。手荷物が多い方はオススメです。観光案内所の営業時間にご注意ください。(8時〜20時まで)

ゴミは持ち帰ろう!

猿沢池では不定期で、調査や池底の清掃のために水抜きが行われることがあるのですが、南西に設置されているベンチの前あたりから大量の酒瓶や空き缶が見つかっています。

猿沢池は濁らないと七不思議で謳われるほど、程よくキレイな池とされていますが、現在の猿沢池はどう見ても濃い藻で覆われたような真緑色をしています。

ゴミが原因で濁っているとも考えられますので、ゴミは必ず持ち帰りましょう!

猿沢池には七不思議があった?!

古よりこの猿沢池には不思議な不思議な言い伝えが残されています。これを現在では猿沢池の七不思議として語り継いでいます。

  1. 澄まず
  2. 濁らず
  3. 出ず入らず
  4. 蛙はわかず
  5. 藻は生えず
  6. 魚が七分に
  7. 水三分

澄まず・濁らずの意味

猿沢池は澄みきった水になることはないのだが、度を超えるほど濁ることもない。

出ず入らずの意味

現今の猿沢池には水が入り込むような川もなく、湧き水もない。けれどもなぜか水位は一定していて枯渇することない。

蛙はわかずの意味

猿沢池には、亀(特にミドリガメ)はたくさんいるのだが、なぜか蛙はいない。実際に夏でも蛙の鳴き声が聞こえない。

藻は生えずの意味

なぜか藻が生えない。そういった意味合いでは澄んでいる。

魚が七分に水三分

地元民しか知らないことですが、実は猿沢池には魚が毎年、放流されています。これは興福寺で放生会が行われた際、金魚やフナ

猿沢池は日本屈指の観月の名所だった!!

この猿沢池は日本屈指の観月の名所だと云われています。

日本三大名月鑑賞地
  1. 大覚寺大沢池(京都府京都市)
  2. 石山寺(滋賀県大津市)
  3. 猿沢池(奈良県奈良市)

猿沢池は南都八景の一角でもある!

南都八景
  1. 「佐保川の蛍」
  2. 東大寺の大鐘
  3. 「三笠山の雪」
  4. 「春日野の鹿」
  5. 南円堂の藤
  6. 「雲井坂の雨」
  7. 「轟橋の旅人」
  8. 「猿沢池の月」

猿沢池のMAP(全体図)

この地図を見れば分かりますが、興福寺に近い部分の池畔は道路になっており、ベンチや休憩ができるスペースがありません。ただただ、寂しく柳の木が植栽されています。

ベンチがあるのは南西のスペースのみ

ベンチが設置されているのは南西の池畔です。南西の池畔は少しスペースがあります。

逆さ五重塔を撮影するなら南東の池畔か南東の角がオススメ!

逆さ五重塔を撮影するのであれば南東の五重塔がやや直線上に見える位置がオススメです。

南円堂と桜を撮影するなら南西〜南東と南東の角がオススメ!

南円堂の前にはわずか数えられるほどですが、桜が植栽されていることから毎年、4月中旬くらいになれば見頃を迎えます。

この桜と南円堂を見事な見栄えで画角に収められるのが南西〜南東の池畔と南東の角です。

南東の角は対角状にもっとも距離が離れた位置になるのですが、望遠付きの一眼レフカメラを所持していれば対角状に画角に収めることができるので、ベストショットが撮れます!オススメです。

猿沢池の案内板

猿沢池には3つの案内板が設置されています。

  • 北西角(采女神社の前):猿沢池七不思議の案内板
  • 西側池畔:采女祭の概要が書かれた案内板
  • 東側(九重塔の前あたり):悲運の采女伝説が書かれた案内板

これらの案内板には猿沢池の伝記や入水自殺を図った采女の悲運に満ちた物語などが書かれています。すべて見ておきたい方は、まずは三条通りに面した北西側から→西側池畔を通り→南西のベンチを通って、南側池畔→東側池畔と回っていくのがオススメです。

北側の池畔は行くものではなく観覧するもの!

基本的に池の北側は道路になっていることもあり、行くものではなく、その他の方向から観るものなのでライトアップの照明器具も北側の池畔でのみに集中して設置されています。


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猿沢池の見どころと付近周辺にあるもの

逆さ五重塔

⬆️夜の逆さ五重塔

猿沢池の最大の見どころとも言えるのが、猿沢池の水面に映し出される五重塔の姿ではないでしょうか。

鏡面反射で逆さ向けの五重塔が手前に寂しく生える柳の木と合わさって、猿沢池特有とも言える独特の風情を与えます。

逆さ五重塔を写す位置は、猿沢池のベンチが並べられている付近です。特に常夜灯の前あたりの池畔が最高のフォトジェニックポイントです。

逆さ五重塔を撮影するときの注意点

強風のときは水面にさざ波が立つのでうまく写り込みません。風が止むのを待つか、いっそのこと日時を変更する必要があります。

橋の下、川の中のお地蔵さん

猿沢池は一段上がったような感じで池が広がっているのですが、ならまちへ続く、常夜灯のあたりのある嶋嘉橋(しまかばし)の下になんと!お地蔵さんが並んでいます。

このお地蔵さん、かつて元興寺境内にあったお地蔵さんだと云われ、河川工事の際、出土したそうです。現在では率川地蔵尊や、尾花谷地蔵尊、舟地蔵などと呼ばれ、こうして川の中州に集められて祀られています。

このように橋の下にお地蔵さんが並べられているのは大変、珍しい光景と言えますので猿沢池へ訪れた際はぜひ!常夜灯のある南西へ訪れてみてください。

お地蔵さんが川底に寄せ集められている理由

ここで疑問になった方も多いと思いますが、なぜ、お地蔵さんが川底で寄せ集められて船形に祀られているのか?です。

この理由は単純明快でお地蔵さんが河川工事の際、現在見られるように川底で見つかったこともあり、そのままの状態にしておこうとしたようです。

持ち上げるにしても重量があることから、1体1体持ち上げたのではかなり大がかりな作業になることも懸念されたのでしょう。

それにこれだけのお地蔵さんを安置する場所も見つけなければいけません。

嶋嘉橋

このお地蔵さんの上にある橋は「嶋嘉橋(しまかばし)」と呼ばれ、名前の由来はこの橋を架橋した施主である「嶋屋嘉兵衛」に因んだものです。

またこの橋を通る道は「旧伊勢街道」であり、伊勢神宮内宮とつながっている道でもあります。この道を進んだ先には「桜井市」が在り、桜井から→宇陀を経て伊勢へと続きます。

かつて神宮参拝を終えた人々は伊勢国から→大和路を経て「七在所めぐり」という巡拝をしながら帰途についたとも云われます。

七在所

高野山、住吉、天王寺、石清水、宇治、伏見、三井寺、石山

かつてこの道を通ってお伊勢参りをした数多の人々の姿が想像につきます。ウフ

⬆️嶋嘉橋の下へは自由に行ける。「椿井町 施主 嶋屋」の刻字が見える。

現在はコンクリートで川底が舗装されていますが、かつてはもう少し川底が深かったものと推察されます。

理由は柱の刻字が「椿井町 施主 嶋屋」で終わっているからです。つまり「兵衛」の部分が地中に埋没しているものと思われます。

⬆️『1770年(明和7年)寅年5月吉日』の刻字が見える。架橋された年を示すものと思われる。

なお、この「嶋嘉橋」は明和7年(江戸時代後期)に椿井町の「嶋屋嘉兵衛」が私財を投じて架橋されたと伝えられています。

衣掛柳

⬆️夜の衣掛柳

衣掛柳(きぬかけやなぎ)とは、猿沢池の東側の池畔、ちょうど興福寺五重塔の足元にある52階段の前にある衣掛茶屋の隣に自生する柳の木です。

ただし、初代の柳の木は枯れてしまい、現在の柳の木は2代目になるようです。

「衣掛」と呼ばれる理由は、かつてこの猿沢池で入水自殺を図った采女がこの柳の木の枝に着ていた服を引っ掛けて、素っ裸になり、素っ裸になり!・・入水を図ったとされているからです。オホ

故に「衣を掛けた柳の木」として「衣掛柳」と呼ばれています。

・・。


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衣掛柳の石碑

上記、衣掛柳の真横によく見れば「きぬかけ柳」と刻字された石碑があります。隣に九重塔と采女地蔵があるので、何に対しての石碑なのか分かりませんが、この石碑を向かい見て右斜め前には先ほどの衣掛柳の木が見えます。

これは衣掛柳の木がこの石の後方に生えていることを示した石碑です。

五十二段(52階段)

⬆️20時30分頃の五十二段

52階段は興福寺境内へ続く石階段です。興福寺創建当初から当地に存在する階段でもあり、実際に52段あります。

この階段から見上げ見る興福寺の様相は創建当初から変わらないと云われます。

ただし、「五十二段」の名称が付されたのは江戸時代ということで比較的、近世になります。

この階段が52段なのには理由があり、なんでも菩薩の修行階級である「五十二位」を示すとも云われます。

例年8月上旬に開催される奈良燈花会では、この52階段にも灯籠が設置されます。

このときは、いつもとは違った五十二段の様子を見ることができます。

猿沢池の石碑群

猿沢池の池畔にはいくつか石碑がありますが、代表的な石碑は池畔ではなく、池中に建てられている石碑です。「猿沢池の碑」とも呼ばれます。

猿沢池七不思議の石碑(案内板)

上述の七不思議の石碑です。七不思議が書かれた石碑は池畔に位置する采女神社の付近になります。

 

采女祭の石碑(案内板)

采女祭の概要が書かれた案内板です。采女祭のことを知りたければご覧ください。七不思議の看板から西側を直進した先にあるベンチの手前あたりにあります。

采女伝説が書かれた石碑(案内板)

悲運の采女伝説が書かれた石碑です。帝の寵愛が尽きて采女が見捨てられて入水に至った経緯が書かれています。采女伝説を知りたい方は見ておいてください。

人力車

猿沢池の池畔に位置する上述、五十二段を上った先には春日大社の一の鳥居へつながる参道があるのですが、ちょうど五十二段を上ったところの参道で人力車が数台待機しています。

行きたい場所を告げることでお好みで観光ルートを決めることができますので、古都の風情を心底味わいたい方は、ぜひ!人力車を利用を検討してみてください。

お茶屋兼お食事亭「衣掛け屋」

猿沢池の池畔、ちょうど上記、衣掛柳の隣には、その名も衣掛柳にちなんで「衣掛け屋」というお茶屋兼、お食事亭があります。

「うどん」と「そば」をメインで提供している和食のお店ですが、飲料やお茶、茶菓子なども提供しているのでお茶屋としての側面も持ち併せています。

猿沢池の桜

猿沢池の池畔には、柳の木が多く植栽されている少し寂しいイメージがあるのですが、実は桜の木も自生しています。

ただし、厳密には猿沢池の池畔ではなく、少し奥に入った場所に位置する興福寺南円堂の前に自生する桜になります。

例年、およそ4月2周目くらいが見頃を迎えます。この桜が南円堂と共に猿沢池に映り込む姿は、逆さ南円堂と桜として猿沢池の大きな見どころとなっています。

采女祭と采女神社

采女祭とは毎年、9月12日と9月13日に開催される猿沢池の池畔に建つ采女神社の祭りのことです。

采女祭では、龍頭船と鷁首船(げきすせん)が猿沢池に浮かべられ、非業の死を遂げた采女を慰めるために「花扇」という大きな扇状にした花束が池の中央にて投げ込まれます。

⬆️采女神社

采女祭は昼間に執り行われる儀式ではなく、夕方17時〜21時頃まで執り行われる儀式です。

この日は猿沢池の池畔には提灯、灯籠流しのように灯籠が入れられた船形の入れ物が池中に浮かび仄かで幻想的なライトアップが施されます。

⬆️采女祭の光景

猿沢池の夜景は奈良屈指!イルミネーションやライトアップについて

猿沢池では常時、緑色のライトアップが行われています。

また南西のベンチがある場所の後方の建物である「KOTOWA奈良公園」という結婚式場も外観が緑色にライトアップされています。

⬆️緑の照明が不気味さを煽る…ヒっヒっヒっヒっ

点滅などの演出もない単なるライトアップなので、これをイルミネーションと受け取るのかは人それぞれですが、それにしても見ていると幻想的でキレイです。

⬆️猿沢池のライトアップは基本北岸の柳並木道のみ

実際に訪れると分かりますが、見世物としてのライトアップとは程遠い、あくまでも池の周囲の路地を明るく照らすことが主眼となるライトアップです。

猿沢池が特別にライトアップされる行事

猿沢池が緑のライト以外にライトアップされる行事としては以下のような行事が挙げられます。

ならまち遊歩期間中(例年8月中旬〜月末週まで)

赤い提灯が池畔に吊るされます。

なら燈花会期間中(8月上旬)

猿沢池の北東に位置する五十二段とその周辺に灯りが灯されます。


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猿沢池でボートや平安時代の船に乗れる??

猿沢池には東京上野の不忍池のような貸しボートはないので、ボートには乗れません。

その代わりに采女祭の期間中となる例年9月1周目の土曜日か日曜日と9月12日に限定して、平安時代の鷁首船(げきしゅせん)という船に体験乗船することができます。

厳密にはと龍頭船(りゅうとうせん)という船を浮かべられているのですが、乗船体験できるのは鷁首船のみで、料金が1000円かかります。

体験可能時間は午前10時〜17時までの間で、猿沢池内を先頭さんの案内ガイド付きで2周してもらえます。

采女祭については下記ページをご参照ください。

⬆️鷁首船

猿沢池は大和物語などの和歌でも詠まれるほど有名な池

この猿沢池は平安時代の貴族が詠んだ歌などが収録された「大和物語」では、采女の悲運の物語や、はたまた、「宇治拾遺物語」においては猿沢池には龍が棲むと言う伝説が記載されています。

特に面白いのが「宇治拾遺物語」の猿沢池に龍が棲むという物語です。

猿沢池には本当に龍が棲んでいる?!

上項の宇治拾遺物語の中ではこんなことが書かれているんでさぁ。

なんでもその昔、恵印という僧侶がいたそうな。この僧侶、容姿が風変わりだったのか、それとも、ちぃっとばかし、話し方が変だったのかは分かりやせんが、なにせ周囲の人々からは常日頃から笑い者にされていたそうな。んニャ〜

そこであるとき、我慢できなくなった恵印は一計を案じ、猿沢池の池畔に「月日は分からないが、この池から龍が現れて昇天するときが来るであろう…ふぉっふぉっふぉっ」

などと口からデマカセを書ぇた看板をおおっぴろげに掲げんだと。

しかし、ここで予想外のことが起こるんでさぁ。なんとぉぅ!この看板に書かれたことは近隣の「ならまち」だけではなく、日本中に伝播してしまっちまったんでドスたぃ。

そぅぉ〜してこの話を耳にした日本中の人々は、そのオメデてぇ龍の姿を一目見ようと、この猿沢池にゾクゾクと参集し始めるんでさぁ。

この様子を見て、キン○マが干し柿のようにシワがよっちまうほど縮こまって驚いたのが、何を隠そう恵印本人でさぁ。

今さらハッタリだったなどとは口が裂けても言えねぇわな!

恵印は息もハラハラ返す言葉もなく、ただボー然と立ちすくむばかり・・。

そんなときに、のぉあんと!奇跡が起こりやがったんでドスたぃ。なんとぉぅっ!身の丈、十丈もある黒々とした龍が突如、池の中から出現し、瞬く間に天へ天へと昇っていっちまったんだとさ。

以来、この話は猿沢池の伝説して代々、語り継がれているってワケなのさ。ウぇイ〜

一説では、この龍こそが悲運の采女が変化した龍(大蛇とも)だったとされる説もあるとのこと。

猿沢池の龍が興福寺の宝物を狙っている?!

古来、猿沢池の龍は興福寺に伝わる「面向不背の珠(めんこうふはい)」という宝物を狙っていると伝えられています。

このため、猿沢池を抜け出して、まずは春日大社の一の鳥居の上に身を置き、そこから珠を盗み取れる隙をうかがっていると噂されています。

面向不背の珠とは、興福寺創建の祝い品として、唐の皇帝より藤原不比等へ贈られた宝物の1つのことで、かつては中金堂に奉安されていたようです。

実在した宝物のようですが、1060年(康平3年)の中金堂炎上と共に灰になったと云われています。

ところで・・猿沢池は世界遺産に含まれているのか?

現在でも猿沢池は興福寺の境内だと見られることから、「古都・奈良の文化財」で知られる世界遺産の構成要素の1つなのでは?と思ってしまいます。

しかし、残念ながら現在の猿沢池は興福寺の所有ではないことや、猿沢池自体が「古都・奈良の文化財」の一部として登録指定を受けていません。

猿沢池は心霊スポット夜になれば出る?!

この猿沢池は水深わずか1メートル〜1.5メートルとされていますが、1.5メートルといえば女性であれば足先から頭まで浸かる深さです。

かつてこの池に入水自殺したとされる采女祭の主役でもある采女(うねめ)の霊が同じ境遇の女性を引き込むために水面や池の周囲をさまよっているとも云われます。

それもそのハズでこの采女は帝に寵愛を受けながらも、やがて見捨てられてこの池にて入水自殺を図ったからです。

その想いは成仏など到底できないまでに、無念極まりなかったことでしょう。

実は過去に1度、実際に采女の霊が池に出たと云う話も残されています。詳しく知りたい方は下記ページにて。ヒッヒっヒっヒっヒっ….

猿沢池に棲む生物(魚や亀、蛙など)

  • フナ
  • 金魚

このうちもっとも多い生物がフナと金魚です。理由は上述したように毎年、4月17日に興福寺にて放生会が執り行われるためです。

放生会では毎年、約1800匹〜2000匹ものフナや鯉(ムフ)と金魚が放流されています。

ただ、猿沢池には2014年以前に「ミシシッピミドリガメ」という外来種となる種類の亀が大繁殖し、生態系の崩壊が懸念されたのですが、2014年2月19日に池の水を50㎝ほど残して除水し、駆除作業が行われています。

この結果、現今に至っては在来種のカメのみが見れる状況です。

猿沢池は興福寺の境内なのか?拝観料金(入場料金)は必要??

猿沢池は興福寺が造池し、もともと興福寺の境内地でしたが、現在の猿沢池は興福寺の所有から離れ、奈良県(奈良公園事務所)が所有および管理しています。よって拝観料金も必要なければ入場料金も必要ありません。

猿沢池で行われる采女祭などのイベントのときでも入場料金や拝観料金は必要ありません。


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猿沢池で開催されるイベント行事・一覧

采女祭

猿沢池池畔に建つ采女神社の儀式。猿沢池にかつて貴族が乗船したとされる「鷁首船(げきしゅせん)」と「龍頭船(りゅうとうせん)」が当時の姿で再現されて、池に浮かべられ池内を周遊します。

奈良の夏の終わりを告げる奈良を代表する祭典でもあります。

放生会

興福寺では例年、観音菩薩の縁日である4月17日に「放生会」と呼称する法会が境内の一言観音堂で執り行われます。法会が終了した後、メインとなるのが「放生」俗称で「放流」です。

鯉やフナ、金魚などが約1800匹〜2000匹も猿沢池に放流されます。

2000匹近い魚を放流しますので、一般の参加協力のもと、まずは小さなバケツに小分けして入れます。そのバケツを手持ってこぼさないように南円堂前の石階段を下り、猿沢池の池畔まで運び込み放流するワケです。

なら燈花会

奈良の夏の告げる奈良最大級のお祭りです。期間中、日本全国から100万人以上の観覧客が来場します。

なら燈花会は奈良公園を中心とした興福寺、春日大社、東大寺の境内にロウソクが置かれ、漆黒の闇夜を仄かで幻想的なロウソクの灯りが包み込みます。

猿沢池には直接ロウソクが設置されませんが、池畔の52段をメインとして、その周辺付近にロウソクが置かれます。

猿沢池を経由したオススメ観光ルートをご紹介!

最後にこの猿沢池を経由したオススメの観光ルートをご案内しておきます。

東大寺へ早朝参拝し、まずは南大門から→8時に大仏殿に到着→鐘楼エリアを通り→二月堂→手向山八幡宮を通り→春日大社本殿へ参拝してから→興福寺へ参拝した後にこの猿沢池に訪れて水面を見ながら飲料補給&休憩をする→帰途という観光ルートです。

このルートを歩いて参拝するだけでも13時近くになっていると思います。

猿沢池の場所(地図)・アクセス方法

猿沢池の最寄駅および最寄バス停

  • 最寄りバス停:近鉄奈良駅バス停(徒歩約8分)
  • 最寄駅:近鉄奈良駅(徒歩約7分)

近鉄奈良駅から猿沢池への行き方

近鉄奈良駅から猿沢池までの所要時間と距離

  • 所要時間:7分
  • 距離:約450㎞

猿沢池は興福寺南円堂の足元にあります。興福寺を創建した藤原氏がわざわざ高台に造ったため、猿沢池はその足元になります。

近鉄奈良駅からですと、東向き商店街を南下して突き当たりの三条通りを興福寺および春日大社の方向へ向けて歩いていくだけです。

JR奈良駅から猿沢池への行き方

JR奈良駅から猿沢池までの所要時間と距離

  • 所要時間:15分
  • 距離:約1.1㎞

JR奈良駅からですと、JR奈良駅のバスロータリー北側にある旧奈良駅の駅舎(現在は観光案内所)の前の横断歩道から見える「三条通り商店街」を興福寺・春日大社方向へ向かって直進するだけです。

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