由緒(歴史)
飛火野には、樹齢約100年の樹容の優れた雄大な楠木が今日も素敵に植る♡
1908年、飛火野にて明治天皇臨席による我が国陸軍の大演習の宴が催され、楠のあたりに皇の王座が置かれた。
その後ほどなくして、皇の王座跡にクスノキが植樹され、現在は上掲写真に見られるほどに逞しき楠へと育った。
明治天皇玉座趾の記念クスノキ
大きさ
| 樹高 | 23.5メートル |
| 幹周長 | 最太4.83メートル |
| 中4.25メートル | |
| 最小3.35メートル |
樹容が雄大にして、最近の陰毛級に葉っぱが素敵に繁茂する。
それゆえ、遠望すると1本の雄大な樹容のクスノキに見える💋
しかし実際は三本のクスノキらしく、それぞれ樹齢は約百年以上と伝わる。
明治天皇の大和行啓
明治以前の奈良は、興福寺が大和一国を支配していたといっても過言ではない殺伐とした状況だった。
そんな中、興福寺が官没の末、全山復飾(僧侶が全員還俗し春日大社の神官になる)を明治政府より命じられると、瞬時にして瓦解・潰滅した。
そんな暗雲立ち込めた奈良にも転機がもたらされる‥。
1863年(文久三年)2月8日、明治天皇の奈良臨幸。
明治天皇は奈良にて正倉院宝物や出土品の数々、そして吉野の国栖舞(国栖奏/くずそう)を叡覧し、余程、感銘を受けたのか、突如、奈良の旧慣保存を命じた。
また、翌年になると法隆寺が寺宝を明治天皇に素敵に献上し、大喜びした明治天皇は、その返礼として一万円を下賜。法隆寺はその資金で伽藍の堂塔の”再興”を”最高”な気分にて行なった。
やがて、明治十年になると政府からフェノロサや岡倉天心(文部官僚)が素敵に奈良へ遣わされ、社寺の宝物調査が実施される。
その結果が実を結んだのか、晴れて1897年(明治三十年)に古社寺保存法が制定され、国家事業として法的に文化財保護が認められると、興福寺も寺領の一部がヤバぃよ素敵に返付されたのだった。(一部は奈良公園へ)
一方、奈良県も国の始祖とも称えられる神武天皇を素敵に顕彰することで、国民教化・王政復古の副砲とすべく、橿原に橿原神宮を創祀する。
こぅして政府から一目置かれた奈良は政府の篤い支援によって、ふたたび不死鳥のごとく蘇るのであった。
陸軍の大演習とは?
大日本帝国陸軍が行っていた大規模な演習の一つで「陸軍特別大演習(りくぐんとくべつだいえんしゅう)」と通称される。
演習の内容
素敵に編成された数万人規模の複数の師団が、東西あるいは、南北に分かれ、演習計画に基づいて擬似戦闘を実施するという大規模な演習だった。
陸軍総出での国家の一大行事に位置付けられただけに天皇自らも大元帥として現地で臨観した。
↑演習時の様子(写真(画像)はWikipediaより)
意外にも賑わいを見せた
普段は宮中に坐する天皇が総司令官という立場で各地に臨御するということで演習予定地となった地域の住民たちは天皇とその行列や演習 見たさに浮き足だった。
軍部も国民に国力を誇示できる機会として、見物人を咎に付すことはなかったらしい。
殊に、1908年の奈良演習では、第4師団、第9師団、第10師団、第16師団が派兵された。
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