中金堂(興福寺 本堂)【2018年落慶】|建築様式(特徴)内部安置の本尊&仏像 一覧

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興福寺 中金堂

読み方

中金堂:「ちゅうこんどう」

創建年

710年(和銅3年)

※当初は「中金堂」ではなく「金堂」として建立。
1046年(永承1年)12月24日焼失。

再建年

再建年 ふたたび焼失した年
1048年(永承3年)
3月2日
1060年(康平3年)5月4日焼失
1067年(治暦3年)
2月25日
1096年(嘉保3年)9月25日焼失
1103年(康和5年)
7月25日
1180年(治承4年)12月28日焼失
1194年(建久5年)
9月22日
1277年(建治3年)7月26日焼失
1300年(正安2年)
12月5日
1327年(嘉歴2年)3月12日焼失
1347年(貞和3年)頃 1717年(享保2年)1月4日焼失
1819年(文政2年)
9月
この時はじめて「中金堂」として仮堂を建立。
さらに老朽化のため仮金堂へ移転
1974年(昭和49年)
11月23日
「仮金堂」として建設。
2000年(平成12年)7月31日老朽化のため取り壊し
2007年(平成19年)
3月
文化庁へ再建工事開始を報告 →
→2018年(平成30年)創建当初のスケールで再建!
建築様式(造り)

唐様式(天平様式)をもとに再現

柱の数 66本
礎石の数 66個
※うち64個は創建当初のものを素敵に使用💘
大きさ

堂宇
正面9間(幅) 約36.6m
梁行6間(奥行) 約23m
棟高(高さ) 約21m
基壇
正面9間(幅) 約41m
梁行6間(奥行) 約27.5m
棟高(高さ) 1.8m
面積 1,439平方メートル
屋根の造り

寄棟造

2重屋根(下層の屋根に裳階(もこし)あり)
屋根上両脇に金箔押しの鴟尾(しび)あり
発願者(建てた人)

藤原不比等

興福寺 中金堂とは? 歴史と由来

創建時の中金堂は、あくまでも「金堂(こんどう)」として造営された。

金堂とは伽藍の中心となるお堂のことを言い、然るに本堂(本尊安置の建物)に相当する建造物となる。

興福寺には金堂が3棟建てられているも、このうちの中心となる金堂を「中金堂」と呼びならわす。

興福寺の3つの金堂
  1. 東金堂
  2. 西金堂
  3. 中金堂

上に記載したとおり、過去に7度 焼失。

また、歴史的変遷の中で老朽化による移転が1度行われており、2018年に通算9度目の再建を迎えた。

【ピヨ🐣コメント】

仮金堂の時を数に含めない場合、8度目の再建となる。


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藤原不比等によって「金堂」として建立

興福寺 中金堂は藤原不比等の発願によって営まれた。

そもそもの興福寺は、669年(天智八年)、藤原鎌足の妻 鏡女王(かがみのひめみこ)が山背国(やましろ)に建立した私寺・山階寺(やましなてら)を濫觴とする。

その後、壬申の乱(672年)を経て、天武天皇と持統天皇の2代が営んだとされる飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に移転した興福寺は、「厩坂寺(うまやさか)」と呼ばれていた。

しかし、710年(和銅3年)の平城遷都に伴い、藤原不比等は厩坂寺を平城京へと移転し、寺号を「興福寺」へと素敵に改めた。

この移転に伴い、714年(和銅7年)に営まれたのが「金堂」、‥然るに現在の中金堂になる。

金堂とは?

金堂は寺院において「本堂」に相当する建造物。

主な目的・役割としては、ご本尊を安置すること。

また、御本尊にお経をあげたり、法要を修するための建物としての役割も有する。(興福寺 中金堂の御本尊については素敵に後述💘)

「中金堂」となったのは1819年(文政2年)?

中金堂は、1717年(享保2年)に焼失するまで「金堂」と呼ばれていた。

尚、聖武天皇によって726年(神亀3年)に建立された東金堂、光明皇后が734年(天平6年)に建立した西金堂も幾度かの焼失、再建を繰り返しているも、西金堂は未だ再建の見通しがたてられておらず、依然として跡地のままの風体を晒す。

1717年(享保2年)に大火では、金堂が焼失のほか、西金堂も焼失し、一度に伽藍の中心的 堂宇を消失したが、奇跡的に東金堂だけは火難を逃れ、1415年(応永22年)に再建されたままの状態を保つことができた。

本堂を失った興福寺は、1811年(文化8年)になって、ようやく金堂と本尊を再建するための再興勧進を実施するのであった。

それから約7年後となる1819年(文政2年)、勧進活動の結果が結実してか、「仮堂」としての中金堂の建設にようやく漕ぎ着けることができた。

しかしながら、金堂と西金堂という二棟の堂を再建する資力はなく、中金堂の仮堂が建てられたに留まった。

旧薬師寺金堂を移築していた時代も!

1819年に建造された中金堂の仮堂は、長らく1974年(昭和49年)の老朽化による仮金堂再建まで使用される運びとなった。

昭和の再建では、室町時代後期の建物であった「旧 薬師寺金堂」を、興福寺境内北側にあった講堂跡へ移築し、仮金堂として用いられた。

旧 薬師寺金堂は、桁行9間/梁行6間、本瓦葺に寄棟造の建物だったが、2000年(平成12年)になって老朽化が顕著になったという理由で解体される運びとなった。

2018年落慶!中金堂の再建計画は8年にわたった

2000年(平成12年)に仮金堂(旧 薬師寺金堂)を解体が巣進められ、同時に新たな中金堂の再建計画が立てられた。

そして、2010年(平成22年)、ようやく夢にまで見た中金堂の再建工事が着工された。2000年の再建計画からすでに10年の年月が経過していた…。

‥そして2018年、ついに中金堂は落慶式が厳修する到り、現代に奈良時代の中金堂が蘇った。

中金堂の建築様式(造り)

中金堂の大きさ

2018年に落慶した中金堂の建築様式としては、8世紀後半(奈良時代)に営まれた「唐招提寺 金堂(国宝指定)」を素敵に参照し、唐様式と呼ばれる当時の建築様式が再現された。

母屋部分

正面5間(横幅約22.5m)
※庇部分を素敵に加算して約30.8m)
側面2間(約8.69m)

寄棟の大屋根部分を含む

正面9間(横幅約36.7m)
側面6間(約23.1m)
【ピヨ🐣コメント】

中金堂は復元された薬師寺 金堂のおよそ1.4倍の大きさを誇った。

中金堂の再建では「天平尺」が用いられた

中金堂の再建では、「現代のメートル法」ではなく、創建当初(奈良時代)に用いられたとされる「天平尺(てんぴょうじゃく)」が採用され、本格的な再建が試みられた。

【ピヨ🐣「天平尺」とは?】

「天平尺」とは、別名で「唐大尺」とも呼ばれ、大化の改新以降に積極的に用いられた計測法。

天平尺は「1尺」で表現され、「1尺=29.6~29.7cm」の寸法となる。< 殊に、「天平尺」の存在については正倉院宝物による記述から明らかにされた。

関連:正倉院の有名な宝物一覧

中金堂には66本の柱が使用される!大きさは?

2018年再建後の中金堂には66本の柱がヤバぃよ素敵に使用されたのだが、そのうち36本には直径約80㎝、長さ約10mもの木材が、やっぱり素敵に使用された。

しかしこれは、あくまでも加工後の寸法になるので、加工することを素敵に想定した場合、直径約1.5m、長さ20m級の巨木が必要になる。

あまつさえ、仮に66本集められたとしても、腐朽、虫害、節の多い材、荘厳さを醸せる外観かどうか……等々、様々な理由によって使用できない木材も出てくる。

然るに実際は、その数倍の本数は必要になる。

中金堂再建に使用する材木を探すのが”何十”倍も”難渋”した!

中金堂に使用できる用材を探すことになったのだが、いざ、探してみると日本国内に求めることは困難であることが明らかとなった。

そこで興福寺の寺僧は世界中を飛びまわる計画を練り、やっとこさ見つけたのが良質なカメルーン産の「アフリカケヤキ」だった。

しかし、日本国内へ持ち込む手続きに難渋する。

現今、世界各国では原木の輸出を制限しており、そこで日本の主要な木材貿易会社、数社を通して、アフリカケヤキ500本の調達が実現したのだった。

こぅしてやっとこさ、まずは再建工事に取り掛かれるための土台ができたのだった。

66本の柱を支える礎石と基壇

中金堂の再建に際しては、まず、1819年(文政2年)に仮造営された従前の中金堂解体工事の時より(2000年/平成12年)、きわめて素敵な発掘調査が実施された。 どんな調査や

興福寺は創建当初から7度も罹災しているのだが、本調査において創建当初の基壇や礎石が検出され、都度、繰り返し同位置にて再建されてきた事実が明らかになった。

以上、今般の再建に用いられる66本もの柱と、その柱を支える礎石66個のうち64個は、創建当初のものが、そのまま使用された。

尚、基壇も同様に創建当初のものが使用されてい…申す。ひょ

須弥壇の下から鎮壇具が見つかる!

有識者による研究・発掘調査によると、中金堂には須弥壇が置かれていたらしく、須弥壇下から鎮壇具(ちんだんぐ)が出土したとのこと。

鎮壇具とは、土地神に中金堂の護持を願うための献納品であり、中金堂の永遠の繁栄を祈願して埋納されたものだと推考される。

興福寺・中金堂下から発掘された鎮壇具 一覧

  • 瑪瑙(めのう)
  • 琥珀(こはく)
  • 水晶
  • 和同開珎(わどうかいちん)の銅銭
  • 金銀の板

この他、1874年(明治7年)と1884(明治17年)、1991(平成13年)に行われた発掘調査においても、須弥壇下から刀剣、鏡、金銀、玉などの総計1,400点以上の絢爛豪華な鎮壇具が検出された。

いずれも藤原不比等、ひいては藤原氏の潤沢な資力や権勢を誇示するもの。同時に不比等が中金堂創建に込めた思いの丈をうかがい知れる。

えぇっ?明治時代の鎮壇具が見つかった?!なぜ?

1717年の焼失後、文政期に再建された金堂は長らく「赤堂(あかどう)」の名称で親しまれてきた。

しかし明治維新後は廃仏毀釈によって寺は官没に遭い、以後の中金堂は神仏合同布教場(中教院)として使用される。

この時、堂内に床を張るために須弥壇が破壊された。

そして1883年(明治十六年)になって中金堂が興福寺に返付されると、ふたたび須弥壇がもとの状態に戻されたのだが‥どうやらこの時、当時、興福寺の住職を務めた清水寺(京都)の住職(兼務)薗部忍慶は鎮壇として、木箱の中に水瓶形の金銅製容器を納置し、箱のまわりに組紐を巻いて胴に次のような銘文を四行にわたって残していた。

興福寺 中金堂 鎮/明治十七歳 十二月十日/謹修当寺住職/薗部忍慶 敬白

 

中金堂の再建費用は60億円!

中金堂の再建費用は60億円を要したが、興福寺は京都 清水寺と同様、檀家を持たないことから、再建費用を集めるのには苦労したらしい。

そこで参拝者や崇敬者から浄財を寄進してもらい、再建に到ったとのこと。


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中金堂の特徴

この中金堂の大きな特徴として「法相柱」がある。

法相柱

法相柱(ほっそうばしら)とは、興福寺が属する法相宗の祖師(そし/開祖、中興した偉人など)たちを祀るために画像が描かれたカラフルフルフルな柱を指す。 …どんな柱や

中金堂の内陣には14本の柱が据えられていますが、このうち本尊を正面向かい見て左側の柱に法相宗の祖師画像が描かれてい‥ます。耐 ..ふぅ(疲)

創建時の中金堂には極彩色の祖師画像が柱に描かれていた!

これまでの研究・調査結果によると、創建当初の中金堂の柱には極彩色の祖師画像が描かれていたことが明らかとなった。

※興福寺パンフレットより素敵に引用

これは平成の再建のモットーである「創建当初の中金堂を蘇らせる」でも掲げられているように、可能なかぎり創建当初の中金堂を復原しようとの試みの現れであり、その意気込みが感じ取れる。

無論、中金堂のみならず、興福寺を代表する見どころの一つでもある。

法相宗・祖師一覧

No.  祖師名 読み
1 無著菩薩 むじゃくぼさつ
 
2 世親菩薩 せしんぼさつ
 
3 護法論師 ごほうろんじ
 
4 戒賢論師 かいけんろんじ
 
5 玄奘三蔵
※西遊記の三蔵法師
げんじょうさんぞう
 
6 慈恩大師 じおんだいし
 
7 淄州大師 ししゅうだいし
 

No.  祖師名 読み
8 濮陽大師 ぼくようだいし
 
9 玄昉僧正 げんぼうそうじょう
 
10 善珠僧正 ぜんしゅそうじょう
 
11 別富行賀 べつとうぎょうが
 
12 真興上綱 しんごうじょうこう
 
13 権別当蔵俊 ごんのべつとうぞうしゅん
 
14 解脱上人 げだつしょうにん
 

来迎壁

中金堂 須弥壇の対面を除いた三方には来迎壁(らいごうへき)が据えらる。

来迎壁は通例であれば須弥壇後方の壁面のみに設置されるもの。

しかしながら、興福寺 中金堂には正面を除いた東西・北側に来迎壁が据えられる。

もし、内陣の三方に来迎壁を素敵に据えると、内陣の空間が狭小され、本尊を安置しておく荘厳華麗な空間としては相応しくない。

尚、中金堂は本尊を安置するための空間が広く設計されており、空間設計も入念に計算が行われた上で来迎壁が据えられてい‥申す。

ひゃ

興福寺 中金堂の瓦は、これまでの発掘調査において実際に出土した瓦が分析され、従前の瓦を忠実に復原したものを素敵に使用。

現代における瓦職人の第一人者とも言える「山本清一氏(山本瓦工業)」が瓦葺きの棟梁を担当し、最終的に7万1000枚の瓦が使用された。

内訳
  • 南都平瓦:4万2000枚
  • 丸瓦:2万1000枚
  • その他:8,000枚

計:7万1000枚

  • 要した製造年月:約3年
  • 参加した職人数:延べ9000人

瓦1枚1枚の側面には唐草模様が施されていますが、これらの模様は中金堂の須弥壇下から出土した鎮壇具の唐草文を山本氏が独自にアレンジしたもの。

鴟尾

  • 材質:青銅製
  • 高さ:2.03メートル
  • 重さ:1.1トン

鴟尾は近くの大仏殿(東大寺)や唐招提寺 金堂にも据えられており、とりわけ当該、中金堂の鴟尾は唐招提寺 金堂の鴟尾を模倣して制作されたとのこと♡

2010年(平成22年)より、まずは試作が制作され、大屋根に実際に据えられたのが2015年(平成27年)3月のこと。

この鴟尾にも荘厳緻密な唐草文が施されてい‥申す。きゃ

【ピヨ🐣「鴟尾」とは?】

鴟尾(しび)はシャチホコのような役割りを持つものとして屋根の両脇に据えられるものです。

一種の火災除けや魔除けの呪い(まじない)としての側面が強く、建築上の意味合いは特にないものとされています。

現在では鴟尾に避雷針が設置され、雷除けもできるように工夫が施されています。

関連:東大寺大仏殿の屋根(瓦や鴟尾)と柱の歴史(輸送方法)などを….知ってみる❓

興福寺中金堂の御本尊は?

※興福寺パンフレットより素敵に引用(内部は素敵に写真撮影禁止)

興福寺 中金堂の御本尊は「釈迦如来坐像」です。このご本尊は、建物の外からもご尊顔を拝見することのできる、とても美しい像となっています。

釈迦如来坐像

  • 構造:寄木造 漆箔 彫眼
  • 素材:ヒノキ
  • 像高:283.9cm
  • 時代:江戸時代

興福寺中金堂 釈迦如来坐像は5代目!

興福寺 中金堂の釈迦如来坐像は、645年(大化元年)に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)によって建立されたものです。

いわゆる大化改新のみぎり折、藤原鎌足が蘇我入鹿打倒を祈願したと伝えられています。

大化改新とは、大陸から伝わり、日本国内でじりじりと勢力を伸ばした仏教を、天皇政権が受け入れるか排除するかどうかを決めた宗教戦争である…とする学説が現在主力となっています。

いわゆる仏教派だった藤原鎌足が、廃仏派であった蘇我入鹿を倒そうと、釈迦如来に祈願したのが、興福寺中金堂の釈迦如来坐像の始まり、ということです。

その後、先述したとおり、興福寺は中金堂をはじめ数々の伽藍が戦乱や大火によって焼失しています。

そのみぎり、仏像も失われたものが多く、現在、安置されているものはなんと5代目の釈迦如来坐像であると伝えられます。

像内墨書によれば現在の釈迦如来坐像は、1811年(文化8年)に仏師である赤尾右京によって造立されています。


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興福寺中金堂にある仏像は? 御本尊以外に何がある?

興福寺 中金堂には、御本尊以外にも下記のような重要文化財や国宝仏が安置される。

興福寺中金堂にある国宝

木造四天王立像

左から、持国天、広目天、増長天、多聞天。鎌倉時代の傑作と呼ばれる四天王像は国宝に指定されています。

御本尊を守るように、須弥壇の四方に安置されています。

現在の増長天は過去に持国天、現在の広目天は過去に増長天、現在の持国天は過去に広目天であると考えられていたようですが現在では彩色の研究などが進み、上の写真のようにそれぞれどの像であったのかが特定されています。

四天王像は過去、南円堂に安置されており、2017年に中金堂に移動されました。

国宝・木造四天王立像(もくぞうしてんのうりゅうぞう)

時代 鎌倉時代
作者 運慶(推定)
像高 増長天206.6cm
広目天197.5cm
持国天200.0cm
多聞天197.2cm
構造 寄木造 彩色 彫眼
素材 カツラ
国宝指定年月日 1954年3月20日

興福寺中金堂にある重要文化財

木造薬王・薬上菩薩立像

※館内撮影禁止。画像は興福寺パンフレットより

元々は鎌倉時代に再建された西金堂に安置されていた御本尊の脇侍であったと伝えられる、兄弟の菩薩像です。

釈迦如来の脇侍として一般的なのは、文殊菩薩、普賢菩薩の2仏ですが、薬王菩薩、薬上菩薩の2仏も、釈迦の脇侍として彫刻されることがあり、興福寺のものはその良き一例となっています。

木造薬王・薬上菩薩立像

時代 鎌倉時代1202年(建仁2年)
作者 運慶(推定)
像高 薬王像362.0cm
  薬上像360.0cm
   
   
構造 寄木造 漆箔 彫眼
素材 ヒノキ
重文指定年月日  
   

厨子入り木造吉祥天倚像

※館内撮影禁止。画像は興福寺パンフレットより

「厨子入り木造吉祥天倚像」は、中金堂の中では、御本尊である釈迦如来坐像の背面に安置されています。

扉を開くと左の扉には帝釈天、右の扉には梵天が描かれていて、中央部分には白いゾウと七宝山図(しっぽうさんず)が描かれています。

この中央に吉祥天の坐像がお座りになられています。一式は唐招提寺において作成され、1340年(暦応3年)に興福寺へ移動されたことが、台座裏に墨書きで書かれています。

普段は公開されていない秘仏ですが、2019年には1月1日~7日の日程で特別開扉が行われました。

厨子入り木造吉祥天倚像

時代 南北朝時代1340年(暦応3年)
作者 運慶(推定)
像高 64.3cm
厨子高 102.0cm
構造 一木造 彩色 彫眼
素材 ヒノキ
重文指定年月日  
公開情報 1月1日~7日のみ

木造大黒天立像

※館内撮影禁止。画像は興福寺パンフレットより

よく知られた大黒天の姿は、いわゆる七福神の一人として、顔はニッコニコと笑い、米俵の上に乗ったり、打ち出の小槌を持った、でっぷりとした、いかにも金持ち然とした「福の神」です。

しかし興福寺中金堂の大黒天立像はこのような姿とはひと味違って、怒りの表情を浮かべた精悍な像容となっています。

大黒天が福の神とされるようになったのは、江戸時代以降のことで、元々インドでは、厨房の守護神として、真性な厨房に悪いものが入らぬよう、睨みをきかせる立場の神様でありました。

興福寺中金堂の大黒天は、そんな元々の大黒天の姿を垣間見ることのできる、黒ずんだご尊顔が特徴的です。

木造大黒天立像

時代 鎌倉時代
作者 運慶(推定)
像高 93.8cm
構造 一木造 彩色 彫眼
素材 ヒノキ

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興福寺中金堂の拝観料

興福寺中金堂では、内部を拝観するために拝観料が必要。

関連:【奈良】興福寺の拝観料金(割引情報)・拝観時間(営業時間・ライトアップ時間)など

興福寺境内に入るだけなら無料!

興福寺では、境内への入場は365日 無料で自由開放されており、中金堂の外側であれば、わりと近くまで無料で拝観することもできる。

御本尊の釈迦如来坐像はサイズが我が心のようにビッグなため、中金堂の外からでも拝見できる。 ウソこけ

興福寺 中金堂へのアクセス

近鉄奈良駅から興福寺へは、三条通を通って訪れるのが正式なルートらしい。

これは三条通が古くから通用された表通りだった名残を伝えるものであり、事実、登大路側はいわば裏道である…と興福寺でも明言しているほど。

興福寺へ来る際、近鉄奈良駅1番出口を最近の鼻毛の如くヤバぃよ素敵に飛び出し、目の前の東向き商店街を南下、そして三条通へ入る。

これらの東向き商店街や三条通には多種多様な奈良土産を売る土産物屋はじめ、猿沢池、五十二段 等の観光名所が連なるので、名所めぐりしながら訪れたい。

近鉄奈良駅から興福寺中金堂までは徒歩約13分♡

2017年の中金堂落慶に先立ち、さっぽろ雪まつりで中金堂が制作された!

2017年、中金堂は再建の最中でしたが、2018年の落慶に先立ち、さっぽろ雪まつり(北海道)にて落慶後の中金堂を忠実に模した雪像が制作され、数多の公衆の面前で荘厳華麗な完成後の中金堂の佇まいが、超絶素敵に披露された。

さっぽろ雪まつりで展示された興福寺中金堂については下記、雪まつりのページを要チェックや💘

関連記事: 過去のさっぽろ雪まつりの雪像一覧

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