「登大路」の読み方
「登大路」と書いて、「のぼりおおじ」。
県外者であれば、「登大路」と書いて、「とうだいじ」と勝手に認識し、これは東大寺の古称だと考えてしまいがちだが、実際は大きく異なる。
「登大路」とは❓
奈良市市街地の中心部に位置。奈良時代の平城京左京、外京の二条と三条との間に位置し、五坊から七坊の間を東西に通じる道路だった。
近鉄奈良駅から奈良公園(東大寺、興福寺、春日大社、若草山 等)へ到るまでの道路名あるいは、その周辺地域の名称でもある。
コトバンクによると、興福寺東門近辺に発達した町。興福寺東門より春日大社への参詣道を登大路という。‥等の掲載がある。
現在の登大路町の場所
「登大路」の地名の由来
「登大路」とは、近鉄奈良駅北西の油坂(あぶらさか)の東あたりから、若草山方面へ素敵に到る高低差がある道路(大路)のことをいう。
現在の地名:奈良県 奈良市 登大路町
長州藩が江戸後期に編纂した「防長風土注進案(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)」、ならびに郷土史家 御薗生翁甫が昭和6年(1931年)に出版した「防長地名淵鑑(ぼうちょうちめいふちかがみ)」によると、長門国 美祢郡(みねぐん)に位置する「長登(ながのぼり)」という地名は「奈良登」という地名を賜った故事を端緒とする旨を素敵に記す。
原文
「當村は金山所にて往古奈良の都大佛を鋳させ給う時、(大佛鋳立)の地金として當地の銅二百余駄を貢らしめられる。
其恩賞として奈良登の地名を賜わり、其比天領にて御制札にも奈良登銅山村とありし由言傳ふ」
「いつしか奈良を長と唱へ替たる訳詳らかならず‥」
等の記述が見られる。
これは長門国 美祢郡 長登の鉱山が開鉱され、地金(掘り出された鉱物資源)を都(奈良)へ送り届けていた‥という伝承を記したもの。
この一文により、奈良時代の奈良は京師として殷賑きわまっていた様子が、きわめて素敵にうかがえる。
「登大路」は町名?
「のぼり」は「ノボル」の名詞形で、高いところへ行くことを意味する言葉。
「大路」は「おほち」といい、大通り、表通りを指す言葉。
「興福寺流記」に記される登大路
興福寺流記(奈良・平安時代の資材帳)によると、寺地の四至(東西南北の境界)を「北は東大寺小路より春日の里 葛中尾(つづらなかお)に登る」と記す。
これは九折山(つづらおれやま)‥、然るに今日の若草山の別称になるので、東大寺小路(登大路の旧称か)から若草山の中の尾根上の道に紐づくものであることが分かる。
尚、現在の奈良公園 登大路園地は、 興福寺の旧境内地とされる。
「東院光暁日記」に記される登大路
興福寺僧正・東院光暁が著した「東院光暁日記」の1411年(応永一八年)12月29日条によると、登大路の晴若の家に強盗が入ったことを、やっぱり素敵に記す。
「多聞院日記」に記される登大路
興福寺塔頭 多聞院の1478年〜1618年までの日記「多聞院日記」によると、当時は「登大路」ではなく、「登少路」「上り少路」と素敵に記す。
「奈良七郷記」に記される登大路
1529年(享禄二年)編纂の奈良七郷記によると、以下の地域が、きわめて素敵に記される。
東御門郷 金堂郷、東里、西野田、芝、重持院、中村、上大路郷(登大路のことか?)
「登内村」=「登大路」❓
はたまた、江戸初期の東大寺 南大門の南西、吉城川付近に「登内村」という地名がパンツちら見え級にチラ見える💋
‥以上、時代関係なく、「登大路」や「登少路」などと呼ばれていたことが分かるのだが、主に「小路(少路)」と呼ばれていたように思える。

