奈良 采女神社【春日大社境外末社】
読み方
うねめじんじゃ
創建年
不明
推定説その1:669年(斉明天皇6年)〜724年(神亀元年)※飛鳥時代
推定説その2:810年(弘仁元年)〜824年(弘仁14年)※平安時代
再建年
1902年(明治35年)11月
御祭神
不明
通説では「采女命」、推定説では「事代主」
建築様式(造り)
見世棚造
屋根の造り
切妻造
平入
発願者
藤原良世
もしくは帝(帝=天皇)
造営者
快祐(興福寺興南院の僧侶)
社格
春日大社境外末社
例祭
采女祭:旧暦8月14日(宵宮祭)旧暦8月15日(本宮祭)※仲秋の名月の日
目次
- 1 奈良 采女神社【春日大社境外末社】
- 2 采女神社の読み方
- 3 采女神社の別名
- 4 ところで・・「采女」とは?
- 5 采女神社の歴史や由来
- 6 采女神社は平日は閉まっている!
- 7 采女神社の建築様式(造り)
- 8 社殿の向きが猿沢池に対して背を向いている理由
- 9 創建当初は名前がなかったとも
- 10 采女神社と采女伝説
- 11 衣掛け柳と采女物語
- 12 采女伝説に登場する帝とは誰?
- 13 大和物語に記された「その後の采女伝説」
- 14 謡曲「采女」(大和物語)
- 15 采女神社の御朱印の種類や初穂料(値段)について
- 16 采女神社のお守りの授与について
- 17 夏の終わりを告げる奈良屈指の祭「采女神社の采女祭」
- 18 采女神社へ参拝できる時間
- 19 采女神社のご利益はなぜ「縁結びなのか?」
- 20 采女神社の場所(地図)とアクセス方法
- 21 福島県の郡山にも有名な采女を祀る采女神社と采女祭がある!
采女神社の読み方
采女神社は「うねめじんじゃ」と読みます。
采女神社の別名
創建当初は「采女西向社」や単に「西向社」とも呼ばれていたようです。この事実は鎌倉時代に編纂された古書物「元要記」に記されています。
「西向社」と呼ばれる理由は後述していますが、社殿が摩訶不思議なことに西側を向いて建てられているためです。この様子は采女神社へ実際に参拝すれば分かります。
ところで・・「采女」とは?
采女とは天皇のお傍近くで天皇の寝食の手伝いをした世話役の下級の女官のことです。その采女を祀った神社であることから「采女神社」と呼称されます。
采女神社の歴史や由来
采女神社はJR奈良駅の北側から春日大社・本殿まで続く、「三条通り」を通行した先に位置する「猿沢池(さるさわのいけ)」のほとりにある小さな神社です。
普通に通りを歩くと猿沢池に注目してしまうあまり、通りすぎてしまうことがほとんどというほど小さな神社ですが、年に一度、この小さな神社では奈良を代表する「采女祭」という実に優美でシュールチックな祭典が執り行われます。
この采女神社はいったいいつ頃から当地に存在するのか?については「不明」とされていますが、かつて当地には興福寺の塔頭「興南院」があった場所とされ、創建当初はまったく別名の神社だったようです。
創建年が不明というのもそのハズで采女神社がハッキリと有史上に登場するのは、室町時代以降になるからです。
現在、社殿は猿沢池に背を向ける形で西向きで鎮座していますが、江戸時代に1度、東向きに建て直されています。
しかし、現今は西向きなので、この100年の間に元に戻ったことになります。
「元要記」と呼称される鎌倉時代に編纂された書物によれば、権中納言・藤原 良世(ふじわら の よしよ)の発願によって810年〜824年(弘仁年間)に創建されたとされています。
一方で「大和物語」の記述によれば669年(斉明天皇6年)〜724年(神亀元年)の創建とされています。
なお、現在の社殿後方、猿沢池から見れば正面に鳥居が立っていますが、江戸中期に編纂された「奈良坊目拙解」という古文書の記述によれば、江戸時代中頃に建てられた鳥居とされています。
采女神社の2つの創建説
御祭神は「青衣の女人」?
「元要記」の内容によればこのようにも書かれています。
810年頃、興福寺の南円堂の創建の折、造営作業者の1人であった青衣を来た女人が、ある日、猿沢池の方へ走って逃げて行き、畔に近づいたところでスぅ〜っと姿を消して行方知らずになったそうです。
多くの人は猿沢池に入水したと考え、後にこの女人を祀るために権中納言「藤原良世」が社殿を造営し、かつて当地に存在した興福寺の塔頭(子院)興南院の住職「快祐」が女人の御霊を祀ったとされています。
一説ではこの青衣の女人が幽霊となって東大寺二月堂で執り行われる「修二会(しゅにえ)」の過去帳の奉読の際に姿を表し、「なぜ私の名前を呼ばないのか!!!」と、僧侶に対し激しく怒りをあらわにしたことから、以後、修二会ではこの「青衣の女人」と読むようになっています。
話は少し逸れますが、過去帳の奉読は、大仏造立に携わった功績のある人物の名前や、修二会のために東大寺に参集した神々の名前を読み上げるのですが、唯一、摩訶不思議なことに「青衣の女人」とそのまま読むことから、東大寺の七不思議の1つとも云われます。
以上、この一件の後、幽霊となって現れた青衣の女人を祀るために藤原 良世が西向きの社の造営を発願し、興南院の快祐により、社が築かれて丁重に祀られたとすれば、話の辻褄が合わなくもありません。
現在までの通説による御祭神は「采女命」
現在までの通説であり、春日大社の社伝として代々、伝承されている説が采女命(うねめのみこと)が御祭神とされる説です。
なんでも669年(斉明天皇6年)〜724年(神亀元年)に、帝の采女(身の回りのお世話役)としてはるばる都入りしたのですが、やがて帝との間に男女の縁が結ばれたようです。
しかし、帝の寵愛もやがてが薄れ、その恋苦しさのあまり、猿沢池に入水(身投げ)し、哀れに思った帝が采女を祀るために社を造るように命じたのが当社の起源とされています。
なお、この創建説の由来については大和物語に依るものです。
御垣は昭和時代に据えられたもの
かつては境内を取り巻く形で土塀が建てられていましたが、1902年(明治35年)11月に土塀が撤去され、現在見られるような北側と東側に木柵と木扉が据えられた御垣が張り巡らされています。
采女神社は平日は閉まっている!
注意しておかなければならないのが、采女神社の周りには御垣(木柵)と木扉が張り巡らされ、平日は閉まっているということです。
現在、この采女神社を管理されておられるのが、地元の春日大社の氏子さんになりますので春日大社境内とは営業時間(開門閉門時間)も異なりますのでご注意ください。
おおむね采女神社は日曜日と祝日のお昼頃からオープンし、17時頃まで開いていることが多いです。この時間帯も絶対というものではありませんので、詳細は春日大社さんへ問い合わせしてみてください。
境内敷地は小規模ながら木扉は東と北に2つある。
普段は写真のように閉ざされている。かつては木柵や木扉はなく、土塀が張り巡らされていた。
采女神社の建築様式(造り)
この采女神社は春日大社に所属する子社なのですが、社殿の造りは春日造りではなく、切妻造に屋根上に千木はなく、箱棟に鬼板が据えられ、銅葺で葺かれています。
足元は井桁状に組まれ、本殿手前にはお供え物を供進するための台を附属し、見世棚造りで組み上げられています。
軒下手前には、まばら垂木や船肘木が見えることから、割合、簡素な造りの小さな社殿です。
社殿の部材は春日大社の社殿に見られるように朱色や漆喰の白壁が見えますが、これは春日大社の造替の時の本殿および関係社の廃材を用いて再建されたものだと思われます。
社殿の向きが猿沢池に対して背を向いている理由
元要記によれば、当初、采女神社の社殿は猿沢池を望む形(相対する形)で建てられたようです。
しかし後に帝が「猿沢池はいつ見ても美しいが、池畔に見える采女神社の姿は過去のこと(采女)を思い出し、見るに耐え難い」と告げられ、その直後、一夜にして社殿が西向きに建て直されたとのことです。
冒頭で摩訶不思議な「西向き」と申したのは、猿沢池に対して反対側を向いているからです。(反対側=方角的には西向き)
⬆️采女神社本殿と後方に見えるのが猿沢池。猿沢池から見れば反対(背中)を向いている。
創建当初は名前がなかったとも
采女神社が創建された理由は、かつて当地に存在したと云われる興福寺塔頭の「興南院」の鎮守社として、ただ単に敷地内北東の隅に建てられただけの小さな神社として建てられたようです。
当初は特に名前も無かったようですが、興南院が衰退すると人々によって采女伝説が担ぎ出され、いつしか「采女の怨霊を鎮めるために造られた采女社(うねめのやしろ)」と呼ばれるようになったようです。
大和物語の記述によれば、興南院の東北に興福寺の僧「快祐」が事代主命を勧請して西向きに建てた社だったとも云われることから、もともと西を向いていたことになります。
采女神社と采女伝説
すでに冒頭でも散々にわたって述べていますが、あるとき帝の世話役となる采女が故郷から都入りします。のちにこの采女は帝と男女の間柄になり、激しい寵愛を受けたようです。ウっふぅ〜ん♥ アっハぁぁん♥
しかしやがて帝の寵愛は別の女性へと移り、相手にされなくなった采女は帝への恋苦しさのあまり、猿沢池に入水することになります。
ただし、この采女伝説にはもう1つの伝説が残されており、これは福島県郡山市に伝わる采女伝説となります。
福島県郡山市に伝わる采女伝説と奈良の采女伝説
福島県郡山に伝わる采女伝説では、この采女は陸奥の国安積の里(現・郡山市)出身とされ、奈良時代のこと、冷害により、貢物が滞っていた安積の里(現在の郡山市)に対して、この当時、日本の首都であった奈良 平城京から巡察使・「葛城王」が参られます。
安積の里の者たちは葛城王を最大限もてなすことでなんとか、貢物の件は水に流していただこうと画策するのですが、葛城王は宴会の席で同席することになった「実にピチピチとした娘っ子」の色気スッカリと絆されてしまい、ついにこの娘っ子のピチピチ度合いに我慢ができず、このように告げるのです。
「この、単に”ピチピチ”という表現では収拾がつかないほど、実にピチピチとしまくった”この娘っ子”と引き換えになら、ピチピチと音が出るぐらい貢物の件は忘れてやる」と、こぅ告げるのです。
この結果、単にピチピチという表現では収まりきれないほどにピチピチとしまくった娘っ子は王の采女となり、王から激しく激しく入り乱れた寵愛を受けることになります。ウっふぅぅぅん♥ アっっハぁぁん♥
しかし、この単に”ピチピチ”という表現では収拾がつかないほど、実にピチピチとしまくった娘っ子”は、故郷に幼き日より気持ちの通じた想い人がいたとされ、あるとき帝から寵愛を受けることに我慢ができなくなり、ついに都を出奔し、想い人の居る故郷へ帰ったそうです。
しかし、逆に想い人も采女が帝の寵愛を受けてることが我慢できずに命を絶ち、すでにこの世を去ったことを知らされます。
この話を聞いた采女は想い人を追ってこの猿沢池に入水したという、悲しい悲しい悲運の物語です。
采女の正体は皇后だった??
采女の正体はいっさい不明とされているのですが、平安後期に編纂された大江親通(おおえのちかみち)が著した「七大寺巡礼私記」によれば、入水自殺をしたのは平城天皇(へいぜいてんのう)の妻とされる「伊勢継子(いせのつぎこ)」との記述が残されています。
史実では、伊勢継子は772年に生を得て812年に死去しています。また山城国紀伊郡(京都)に居処したとされることから、猿沢池とはあまり関連性が見えませんが、旦那である平城天皇は臨終の際も奈良平城京に居続けたとのことですので、完全に関係性がないとは言い切れないものがあります。
采女の出身は大阪府?
上述、元要記の記述によれば、采女は河内の平岡(枚岡とも。/=現在の四条畷市、寝屋川市のあたり)もしくは現在、枚岡神社が建つ「大阪府東大阪市出雲井町」のあたりであったと推察されています。
すなわち、元要記の記述が正とするならば、采女は河内・平岡から帝の采女になるために都入りしたことになります。
ただ、枚岡神社は中臣氏(藤原氏)ゆかりの神社であり、本殿も春日大社に見られるような春日造りで造営されていることから、采女との関連性も考えられなくもありません。
采女は猿沢池のどのあたりで身投げ(入水)したのか?
現在までの通説では猿沢池の畔に建つ、衣掛茶屋(創業100年の蕎麦の老舗)の隣に生える柳の木の前あたりで入水したそうです。
この柳の木は現在、「衣掛け柳(きぬかけやなぎ)」と呼称されています。
衣掛け柳と采女物語
実は采女はこの柳の木に着ていた衣を掛けて猿沢池に入水したことから、後世にて「衣掛け柳」と呼ばれるようになっています。
実際にこの柳の近くまで来てみれば分かりますが、柳の隣に石碑が建てられ、「きぬかけ柳」という刻字が見えます。
すなわち、この柳の木の前から世にも稀な悲しい悲しい采女物語が始まったワケです。
采女伝説に登場する帝とは誰?
実はこの采女伝説には「帝」と記載されているのみで、ハッキリと名前までは登場していません。
しかし、時代背景や様々な古書物などを加味した考察においては、「第42代文武天皇(683年〜707年)」もしくは「第51代平城天皇(774年〜824年)」と2つの説が有力とのことです。
大和物語に記された「その後の采女伝説」
平安時代に編纂され、貴族が詠んだ和歌が集録された「大和物語(やまとものがたり)」には、入水した後の采女のこんなエピソードが記されています。
あるとき、旅僧が春日明神(春日大社)を拝するために猿沢池の畔を通った際、1人の里女が現れて旅僧に、かつて猿沢池で起きた采女の悲しい物語を語ったそうです。
その話の中で、采女は猿沢池の畔に生えていた柳の木の枝に、自らが着ていた衣を掛け、素っ裸になって、素っっっっ裸になって!!素っポンポンになって!!!
・・
・・
入水自殺を図ったと旅僧に告げます。チュっ♥
そしてさらにその采女こそが、この池に身投げした自分自身であり、今はこのような幽霊の姿となって現れたことを告げるのです。
するとそれを聞き届けた旅僧は急にズシっ!と、池畔に座わり込み、無言のまま読経し始めます。
その様子を見た采女は嬉しさのあまり、歌舞を旅僧に奉じ再び池に消えて成仏したとの伝説です。
謡曲「采女」(大和物語)
この采女の悲しい出来事が謡曲として記されています。
我が妹子が寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞかなしく
意味
あの愛しい乙女の美しいみだれ髪を、猿沢池に浮いた「藻(も)」として見るのは悲しい
この歌は飛鳥時代を代表する歌人「柿本人麻呂(かきのもと の ひとまろ)」が詠んだとされる歌です。
この歌が詠まれたのが、人麻呂の在命中であった660年(斉明天皇6年)〜724年(神亀元年)だとすれば、采女神社の創建は平安時代ではなく、奈良時代ということになります。
もう1つ残されている歌がこのような歌です。
猿沢の池もつらしな我妹子が 玉藻かつかば 水もひまなし
意味
猿沢池を見るのは恨めしく思う。あの愛しい乙女が池の底に沈んで藻の下に敷かれているのであれば、いっそのこと水が乾いてしまえば良いのだ
この歌こそ、采女を寵愛した帝が詠んだ歌だとされています。一説では、上記、柿本人麻呂を随行させて猿沢池へ訪れた際に人麻呂と共に歌を作ったとも云われます。
采女神社の御朱印の種類や初穂料(値段)について
残念ながら采女神社では御朱印を授与されていません。采女神社には境内呼べるほどの敷地面積はありませんが、かろうじて本殿の手前(真横)に社務所(お守り授与所)があります。
この授与所は平日は完全に閉まっており、さらに日曜祝日に開いていることがあるというほどの小規模な神社です。
采女神社は春日大社の子社であり、その親社となる春日大社では御朱印を授与されていますので、春日大社の御朱印拝受を検討してみてください。
春日大社の御朱印は春日大社本殿前の社務所と夫婦大國社の中で授与されています。
采女神社のお守りの授与について
采女神社では春日大社のお守りを授与されているのですが、、・・なんと!春日大社のお守りだけではなく采女神社オリジナルのお守りも授与されています。
采女神社のお守りについては以下の別ページにてご紹介しています。
夏の終わりを告げる奈良屈指の祭「采女神社の采女祭」
例年、中秋の名月の日(旧暦8月15日)に采女神社では猿沢池に入水した悲運の采女を偲び、采女祭が盛大に執り行われます。
2019年例で示せば、9月12日は宵宮祭(よいみやまつり)で、本祭は9月13日になります。
宵宮祭は、小規模な境内にてヒッソリと儀式が執り行われます。
本祭では、采女の御霊を弔うために2メートル近くもある大きな花扇が龍頭船に載せられ、猿沢池の中央にて投げ入れられます。
その際、「龍頭船(りゅうとうせん)」と、大きな水鳥である「鷁(げき)」をイメージして造られた平安時代の貴族が乗船した船である「鷁首船(げきすせん)」が繰り出され、猿沢池を2周します。
龍頭船では南都楽所の楽師たちによる舞楽が演奏され、ライトアップされた両船と猿沢池を周遊します。行事としては「管絃船(かんげんせん)の儀」と呼ばれ、采女祭最大の見所となります。
采女祭の詳細については下記ページをご参照ください。
采女神社へ参拝できる時間
- 日曜日:12時30分頃〜17時頃まで
- 祝祭日:12時30分頃〜17時頃まで
- 采女祭の期間中:10時頃〜21時頃まで
- 正月期間(三が日):12時30分頃〜17時頃まで※必ずではありません
- 定休日:平日は休み
上述していますが、采女神社は春日大社所属の神社ですが、地元の春日大社の氏子さんが管理されています。
このため、春日大社とは営業時間(開門閉門時間)が異なることだけはご承知ください。
月曜日〜土曜日までは閉ざされています。(営業していません)日曜日と祝祭日のみの営業になります。
日曜日および祝祭日昼下がりの采女神社の様子
⬆️日曜日オープンの時は奈良名物「鹿せんべい」も販売している(1束150円)
平日および土曜日の采女神社の様子
⬆️月曜日〜土曜日の采女神社の様子。社務所および境内の扉という扉は閉ざされている。
采女祭のときの采女神社の様子
宵宮祭の采女神社の様子
宵宮祭は手前の猿沢池にて采女祭本祭でも使用される鷁首船(げきすせん)の体験乗船ができる。(2周1000円)
その乗船受付の運動会テントが社務所の前に設営されている。さらに「采女祭」と書かれた提灯や幟までもが見える。
本祭が斎行されている様子
⬆️采女祭(神事)が境内で行われている様子。物凄い人だかり。ウフぅん♥
采女神社のご利益はなぜ「縁結びなのか?」
采女神社のご利益としては「縁結び」のご利益があるとされていますが、ここまでのお話の中で登場した采女は恨みつらみで入水自殺を図り、到底、縁結びのご利益とは程遠いように感じられます。
しかし、采女を神として祀ることによってその怒りのパワーが逆に人々の縁結びを手助けするとなれば、縁結びのご利益があるというのも理解できるのではないでしょうか?
おそらくこれは御霊信仰(ごりょうしんこう)に近い形態のものと言えるでしょう。御霊信仰とは恨みを持った故人を神として祀ることで鬼門を封じてもらったり、厄災を退けてもらったりするなどの信仰のことです。
代表例が天神系神社の代表格「北九州・太宰府天満宮」で奉斎されている「菅原道真」公です。学問の神様として全国的に有名です。
実は、この御霊信仰によって造営された神社が、この采女神社の付近に位置する「ならまち」にもあります。世界遺産「元興寺」と隣接した御霊神社という名前の神社です。
ご興味のある方は采女神社へ参拝された折、足を運んでみてください。
采女神社の場所(地図)とアクセス方法
采女神社の最寄駅および最寄バス停
- 采女神社の最寄りのバス停:近鉄奈良駅バス停(徒歩約8分)
- 采女神社の最寄駅:近鉄奈良駅(徒歩約7分)
近鉄奈良駅から采女神社への行き方
近鉄奈良駅から采女神社までの所要時間と距離
- 所要時間:7分
- 距離:約450㎞
采女神社は興福寺南円堂の足元にあります。興福寺は創建した藤原氏がわざわざ高台に造ったため、采女神社は足元になります。
詳しくは石階段を降りた先にある猿沢池の畔にあります。
近鉄奈良駅からですと、東向き商店街を南下して突き当たりの三条通りを興福寺および春日大社の方向へ向けて歩いていくだけです。
JR奈良駅から采女神社への行き方
JR奈良駅から采女神社までの所要時間と距離
- 所要時間:15分
- 距離:約1.1㎞
JR奈良駅からですと、JR奈良駅のバスロータリー北側にある旧奈良駅の駅舎(現在は観光案内所)の前の横断歩道から見える「三条通り商店街」を興福寺・春日大社方向へ向かって直進するだけです。
福島県の郡山にも有名な采女を祀る采女神社と采女祭がある!
実は福島県の郡山にもこの奈良采女神社と同じような悲しい采女伝説が残されており、この采女を祀る采女神社と采女祭があります。
両市は1971年(昭和46年)より、同じ采女を祀る神社や采女祭りがあるという縁から姉妹都市として交流が続けられています。
毎年、奈良 采女祭では福島県郡山市から郡山市長や関係者、それと使節団が招聘され、天平衣装を身にまとって「花扇奉納行列」などに参加します。
逆に奈良からも郡山の采女祭の折に、奈良市長やミス奈良(2019年より「NARACITYコンシェルジュ」)が招聘されています。
福島県郡山市の采女祭は、この奈良采女祭よりも規模が大きく「東北五大祭」の1つとされています。
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