興福寺東金堂(国宝)

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興福寺東金堂(国宝)

創建年

726年(神亀3年)→1017年(寛仁元年)6月22日焼失

再建年

  • 1031年(長元4年)10月20日→1046年(永承元年)焼失
  • 1048年(永承3年)→1180年(治承4年)焼失
  • 1182年(養和2年)→1358年(文和5年)焼失
  • 1368年(応安元年)→1411年(応永18年)焼失
  • 1415年(応永22年)=現在の建物
建築様式(造り)

一重、寄棟造、前面吹放(ふきはなし)
正面7間(25.6m)側面4間(14.1m)

屋根の造り

本瓦葺

発願者(建てた人)

聖武天皇(しょうむてんのう)

重要文化財指定年月日

1897年(明治30年)12月28日

国宝指定年月日

1952年(昭和27年)3月29日

堂内の仏像

  • 重要文化財 本尊薬師如来像(やくしにょらいぞう)
  • 重要文化財 日光・月光菩薩像(にっこう・がっこうぼさつぞう)
  • 国宝 文殊菩薩像(もんじゅぼさつぞう)
  • 国宝 維摩居士像(ゆいまこじぞう)
  • 国宝 四天王像(してんのうぞう)
  • 国宝 十二神将像(じゅうにしんしょうぞう)

興福寺東金堂とは?歴史と由来

複数の「金堂」を持つ興福寺の中でも、奈良時代の面影を最も歴史深く味わうことができる建物が、東金堂です。

東金堂の歴史や由来についてご紹介します。

興福寺東金堂は聖武天皇が叔母のために建てた建物

東金堂の発願者、つまり「建てたい」と言い出したスポンサーは、聖武天皇です。

聖武天皇は、仏教に深く帰依して日本の仏教文化の基礎を築いた人物の一人として有名ですが、興福寺にも深い関わりを持ち、特に東金堂に関しては伯母であった元正太上天皇(げんしょうたいじょうてんのう)の病気全快を祈願するために建設したと伝えられています。


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元正太上天皇とは?

有名な聖武天皇は第45代の天皇ですが、元正天皇はその前代、第44代天皇であった女性です。

現在では女の天皇が立たず、平成から令和への改元にあたっては「女性の天皇って過去にいたんだ!」などと話題にもなりましたが、元正天皇はそのうちの一人ということになります。

そもそもは第40代天皇であった天武天皇の孫娘で、第42代文武天皇の姉。

聖武天皇は文武天皇の息子ですから、元正天皇は聖武天皇の伯母にあたります。724年(神亀元年)に、皇太子であった聖武天皇に譲位したことで、太上天皇となりました。

結婚していなかった元正天皇は、聖武天皇のことを我が子と呼んで可愛がり、晩年まで聖武天皇を補佐していたとみられています。

病気がちな時代の多かった聖武天皇にとっては力強い後見人であったに違いなく、このような関係であったため、元正太上天皇が病に倒れた時に、聖武天皇は仏教に縋り、全快を祈って東金堂を建てたと伝えられています。

興福寺東金堂の創建当初の姿とは

興福寺東金堂は都合5回、火災や兵火によって焼失しており、そのたびに再建が繰り返されました。

現在残っているのは1415年(応永22年)の建物です。

いずれも幸運なことに、何十年も再建されない……といったようなことがなかったため、再建時に奈良時代の面影が残されてきた経緯があります。

それでも、伝えられる創建当初の姿と、現在の姿では相違点があるようです。

まず、当初、床には緑色のタイルが敷かれていたようです。

このタイルは「塼(せん)」あるいは「敷瓦(しきがわら)」と呼ばれ、緑釉が施されたものが現存しています。

また、東金堂の創建当初に内部で再現されていたのは、薬師如来の司る「浄瑠璃光(じょうるりこう)」の世界でした。

浄瑠璃光とは?

浄瑠璃光は、別名を「瑠璃の浄土」とも言います。

端的に言えばそこは、病気の取り除かれる、薬師如来の国であり、東方にあると言われています。

浄瑠璃では地面が瑠璃でできていると伝えられます。

瑠璃とは七宝や、青緑色の宝石(石材)を指す言葉ですから、これにちなんで東金堂では、創建当初に床に緑色の敷瓦が使われたと考えられます。

木割(きわり)の太い奈良時代の建築様式

木割とは、柱の直径から算出した他の建築部材のサイズ割合のことを指します。

一般的には古い時代ほど木割りは太く、東金堂でも木割りの太さから、奈良らしさを感じ取ることができます。

興福寺東金堂の見どころ

それでは、興福寺東金堂の見どころについてご紹介します。

国宝×4、重要文化財×2の薬師オールスターが圧巻

興福寺東金堂を拝観するなら、とにかく国宝と重要文化財のオンパレードである点を見逃すわけにはいきません。

東金堂の見どころはこれらの仏像コレクションに尽きると言えるでしょう。

現在でも東金堂の中では、浄瑠璃世界を再現するかのような「薬師如来と最強のメンバー」が無敵の布陣を敷かれています。

【重要文化財】銅像薬師如来坐像

  • 制作時代:室町時代
  • 重要文化財指定年月日:1900年4月7日(木造薬師如来両脇侍像として)
  • 銅像/漆箔
  • 像高:255cm

興福寺東金堂の薬師如来坐像については様々な歴史が残されています。

そもそも元正太上天皇の病気平癒を祈って建立された東金堂には、病気平癒のための仏さまとも言える、薬師如来と、その両脇侍となる日光菩薩、月光菩薩が祀られていました。

これらの他にも、堂内には「純銀弥勒像」「金銅阿弥陀像」など現存しない様々な仏像が存在したと伝えられていますが、1046年(永承元年)の火災によって御本尊の薬師如来は焼失しました。

時を置かずして当時の高名な仏師であった定朝(じょうちょう)が薬師如来を再興したことが伝えられています。

この時は、光背に見事な飛天や化仏があらわされており、また台座には十二神将像も彫られていたと言われます。

しかしこの薬師如来坐像も、1180年(治承4年)の兵火によってすべて焼失しています。

1182年(養和2年)には、東金堂の建物は再建していますが、御本尊をすぐに再興することができず、興福寺僧兵が飛鳥の山田寺講堂へ赴き、1187年(文治3年)、薬師三尊像を興福寺東金堂まで運びました。

この時の御本尊である薬師如来坐像は1411年(応永18年)の火災で首から下が焼け落ち、「仏頭(国宝)」となって今も興福寺に保存されています。

その後、1415年(応永22年)に現在の薬師如来坐像が鋳造され、重要文化財として残されています。

興福寺仏頭(国宝)

飛鳥の山田寺から興福寺へ運ばれた薬師如来坐像の首から上の部分は、現在「興福寺仏頭」と呼ばれ、興福寺宝物館に所蔵されています。

仏頭は、火災によって焼け落ちた後、現在の御本尊の台座内部にしまわれていたらしく、1937年(昭和12年)に台座から発見され、国宝に指定されました。

【重要文化財】銅像日光・月光菩薩立像

中央は釈迦如来坐像。右:日光菩薩/左:月光菩薩
※右手前前方は文殊菩薩像
興福寺パンフレットから引用。(内部は写真撮影が禁止されています)

  • 制作時代:白鳳時代(673~710年頃)
  • 重要文化財指定年月日:1900年4月7日(木造薬師如来両脇侍像として)
  • 銅像/鍍金
  • 像高:日光菩薩像300.3cm 月光菩薩像298.0cm

薬師如来坐像の両脇時として控えるのが、日光菩薩立像、月光菩薩立像の2体の仏さまです。

向かって右手側におられるのが日光菩薩。左側にいらっしゃるのが月光菩薩となります。

御本尊の薬師如来坐像については先述のとおり、山田寺から移動された後に焼け落ちてしまい、新しく鋳造されたものが現存していますが、日光・月光菩薩立像については1187年(文治3年)に山田寺から運搬されてきたものがそのまま興福寺に残されています。

御本尊が失われた折の火災では、日光菩薩、月光菩薩共に一部損傷のみで焼失を免れています。

白鳳時代のものと考えられていますが、制作は推定8世紀となっていますので、白鳳時代末期、あるいは奈良時代初頭の可能性もあるでしょう。

この日光菩薩、月光菩薩には大きな特徴が1つあります。それは、両菩薩とも宝冠を被っており、この宝冠に化仏(けぶつ)が見られることです。

化仏とは、仏や菩薩の変化した姿のことを指します。

時により、仏の姿のままでは衆生を救うことができないような時に、明王やほかの姿になって現れることがあり、これを化仏と言います。

通常、日光菩薩や月光菩薩は、装飾品に化仏がありません。化仏がある菩薩は通常の場合、阿弥陀如来の脇侍であったり、菩薩ではなく「観音」です。

なぜ、興福寺東金堂の日光・月光菩薩立像に化仏が表現されているのか……という謎はいまだに解けていません!

【国宝】木造文殊菩薩坐像

  • 制作時代:鎌倉時代
  • 重要文化財指定年月日:1897年12月28日
  • 国宝指定年月日:1952年3月29日
  • 桧材/寄木造/彩色/玉眼
  • 像高:94.0cm

文殊菩薩は釈迦の実在する弟子の1人で、興福寺東金堂の文殊菩薩像は、学問僧から信仰を集めた歴史の深い仏像です。

作者は、興福寺お抱えの仏師であった定慶(じょうけい。生没年不詳)であると考えられています。

【国宝】木造維摩居士坐像

  • 制作時代:鎌倉時代
  • 重要文化財指定年月日:1897年12月28日
  • 国宝指定年月日:1952年3月29日
  • 桧材/寄木造/彩色/玉眼
  • 像高:88.1cm

維摩居士は、釈迦の弟子で、インドの大富豪の商人であったと伝えられます。

釈迦の教化をよく助け、在家の信者でありながら、仏教徒の模範ともされてきました。

仏教経典である『維摩詰所説経(ゆいまきつしょせつきょう)』を記したことでも知られています。

維摩居士像は老人の顔をしていて、しかも病にたおれた後の維摩居士をあらわしたとも言われています。

像内の墨書き、および台座天板に墨書きが残されており、維摩居士坐像が1196年(建久7年)の定慶の作であることがわかります。

定慶はこの像を彫るのにかかった期間は53日。

その後、やはり仏師であった法橋(ほっきょう)幸円が50日をかけて彩色を施し、1460年(長禄4年)に補彩されたことが記録されています。

【国宝】木造四天王立像

↑多聞天立像

↑持国天立像

↑広目天立像

↑多聞天立像

※いずれも興福寺パンフレットから引用。(内部は写真撮影が禁止されています)

  • 制作時代:平安時代
  • 重要文化財指定年月日:1906年9月06日
  • 国宝指定年月日:1952年11月22日
  • 桧材/一木造/彩色/瞳は黒漆
  • 像高:持国天162.5cm/増長天161.0cm/広目天164.0cm/多聞天153.0cm

興福寺の四天王像と言えば、どうしても南円堂に存在する運慶作(推測)、国宝のものが有名ですが、東金堂にも国宝の四天王立像があることを見逃すわけにはいきません。

この四天王立像は、東金堂の須弥壇の四方に配置されています。

正面から見て、右奥に多聞天、その手前に持国天。左奥に広目天、その手前に増長天という配置になっています。

奥側の広目天と多聞天は、お互いに御本尊側(内側)を向いていますが、手前側にいらっしゃる増長天と持国天の2体は、どちらも正面を向いておられます。

これらの像はすべてヒノキの一木造、つまり、頭の上から足の下の台座までがすべて1本の木から彫られた見事な像となっています。

もちろん、足の下で蠢いている邪鬼も別の木材ではなく、同じ木の下部から彫り出されたものです。

【国宝】木造十二神将立像

  • 制作時代:鎌倉時代
  • 重要文化財指定年月日:1900年4月7日
  • 国宝指定年月日:1953年11月14日
  • 桧材/寄木造/彩色/彫眼
  • 像高:113.0~126.6cm

十二神将は、薬師如来の守護神です。

東金堂では、御本尊の薬師如来坐像の左側に6体、右側に6体、合計12体の十二神将がお揃いです。

各像の配置は、左手前側から、右手前にかけて以下のようになっています。

さらに、十二神将はそれぞれ、頭上に干支の動物を戴いていますので、それぞれの像高とあわせてご紹介します。

  1. 宮毘羅(くびら)大将像―亥、114.4cm
  2. 伐折羅(ばさら)大将像―戌、113.0cm
  3. 珊底羅(さんていら)大将像―午、124.2cm
  4. 迷企羅(めきら)大将像―酉、126.3cm
  5. 安底羅(あんていら)大将像―申、124.5
  6. 安頁儞羅(あにら)大将像※「安頁」で1文字―未、124.2cm
  7. 因達羅(いんだら)大将像―巳、119.7cm
  8. 波夷羅(はいら)大将像―辰、115.4cm
  9. 摩虎羅(まこら)大将像―卯、118.2cm
  10. 真達羅(しんだら)大将像―寅、117.6cm
  11. 招杜羅(しょうとら)大将像―丑、120.0cm
  12. 毘羯羅(びから)大将像―子、119.0cm

これら十二神将立像の制作年代については、すべて同時期のものであることがわかっており、また波夷羅大将像のくつの裏の枘(ほぞ。台座に固定する部分)に、1207年(建永2年)に彩色を終えたことが明記されています。

力強く、仏敵を威嚇する動作の生き生きとした様子からみても、すべての像が鎌倉時代の作風で、1207年の頃に作成されたことは確実視されています。

頭上に対応する十二支の動物を乗せている十二神将像ですが、このように十二神将と十二支とが切っても切れない関係であると考えられ始めたのもまた、鎌倉時代の頃です。

十二支と十二神将を関連づけるようになったのは中国文化ですが、そもそもの十二支の成立と十二神将の成立とは全く別のところにあります。

興福寺東金堂の場所(地図)

興福寺東金堂は、興福寺伽藍の中でも、中金堂の東側に位置しています。

興福寺の表玄関は三条通、猿沢池の側ですので、近鉄奈良駅から、三条通を通り、およそ徒歩9分で東金堂まで到着することができます。

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