興福寺西金堂(さいこんどう)
創建年
734年(天平6年)→1046年(永承元年)焼失
再建年
1078年(応徳4年)→1180年(治承4年)焼失
1182年(養和2年)→1327年(嘉歴2年)焼失
1345年(康永4年)→1717年(享保2年)焼失、そのまま再建されていない
建築様式・屋根の造り
現存しないため不明
発願者(建てた人)
光明皇后
興福寺西金堂とは?
興福寺の西金堂は、734年(天平6年)に、光明皇后によって建立されました。
光明皇后は、仏教に信仰の篤い聖武天皇の皇后です。母であった橘三千代の一周忌にあたり、西金堂を建立したと伝えられています。
もちろん、母親を供養するという目的もあったはずですが、当時の寺院建立には、権力の誇示という目的も含まれていました。広大な寺院伽藍を作り上げることは、財政の潤沢さを庶民にまで知らしめる手段の1つだったのです。
光明皇后は藤原氏の出自で、その母親も藤原不比等の妻として絶大な財力と権力を持っていました。興福寺、および西金堂は藤原氏の権力を示すものでもありました。
1717年の焼失後は再建されず
西金堂は4度焼失していますが、1717年(享保2年)1月4日に焼失した後は財政上の理由から再建されていません。
焼失時は基壇のみが残り、現在もなお「西金堂跡」として興福寺境内に残されています。
興福寺西金堂跡とは
西金堂跡には「西金堂跡」と記した碑が立っており、跡地を柵が囲んでいます。
柵の中は芝地になっていますが、その中でもかろうじて下の写真のように、西金堂の基壇跡が見てとれます。
西金堂が再建されなかった理由は資金難!オカネナイヨ で、江戸時代の文献『大和名所図会』にも残されていますが、やはり基壇のみの状態です。この本は1791 年(寛政3年)に発刊されましたが、これは西金堂が焼失した1717年(享保2年)のその後をよく示す文献となっています。
興福寺西金堂の大きさは?屋根のつくりは?
在りし日の、興福寺西金堂の大きさは、基壇跡などから
- 正面7間(約26m)、側面4間(約14m)
と、現在の東金堂とほぼ同じ大きさであったと考えられています。
また、屋根のつくりに関しても、資料などから
- 寄棟造
であったことがわかっています。
西金堂に安置されていた仏像は?
興福寺西金堂に安置されていた仏像は、
- 本尊釈迦如来(しゃかにょらい)像
- 薬王(やくおう)・薬上菩薩(やくじょうぼさつ)像
- 梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)像
- 十大弟子(じゅうだいでし)像
- 八部衆(はちぶしゅう)像
- 金剛力士(こんごうりきし)像
- 四天王(してんのう)像
等であったと考えられています。
このうち、八部衆像の中に、かの有名な国宝の阿修羅像が含まれ、また同じく国宝の銅造華原磬(かげんけい)も、西金堂にあったものと考えられています。(いずれも現在は国宝館に安置)
▲銅造華原磬(国宝)
阿修羅像(国宝)について詳しくは「奈良 興福寺「乾漆・阿修羅立像」【国宝】」をご参照ください。
西金堂跡の場所
興福寺西金堂跡は、南円堂と北円堂のちょうど間に位置しています。
興福寺境内には、猿沢池のある南側の三条通から入るのが「正面」と言われており、西金堂跡はこの三条通側から南円堂を通り過ぎてさらに北上すると、左手に見ることができます。
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