奈良 興福寺「乾漆・阿修羅立像」【国宝】

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奈良 興福寺「乾漆・阿修羅立像」【国宝】

造立年

  • 734年(天平6年)※奈良時代
修理等に関する情報

鎌倉時代1046年(永承元年)以降、1078年(承暦2年)までの間に再彩色が行われた記録がある(1046年に阿修羅立像が収められていた西金堂が焼失、1078年の再建までに彩色修理)

像高

  • 153.4cm
体重

  • 14.8kg
素材・造り

  • 脱活・乾漆像
作者

  • 仏師 将軍万福(しょうぐん・まんぷく)・画師 秦牛養(はたの・うしかい)
    ※正倉院文書『造仏所作物帳(ぞうぶっしょさくもつちょう)』による
国宝指定年月日

1951年(昭和26年)6月9日

安置場所

奈良・興福寺「国宝館」※元は興福寺西金堂にあったものを移動

阿修羅像の読み方

「阿修羅像」は「あしゅらぞう」と読みます。タイトルでは、「阿修羅立像(あしゅらりゅうぞう)」とご紹介しましたが、正式名称は「阿修羅立像」のほうです。通称で「阿修羅像」、もしくは「阿修羅」とだけ呼ばれることが多くあります。

通常日本において、興福寺の阿修羅像、興福寺の阿修羅、もしくは国宝の阿修羅像……などと呼ばれるものは、多くがこの阿修羅像を指しています。

「阿修羅」正しい読み方

「阿修羅」は日本においては一般的に「アシュラ」として広く認知されていますが、正式には「アスラ」と読み、これはサンスクリット語である「阿修羅(アシュラ)」の音写した読み方のことです。

中東地域では「アフラ・マズター」と呼ばれた多大なる崇敬が寄せられた神でもありますが、インドからアジア地域へ伝来する過程において「悪神」に生まれ変わっています。

悪神に生まれ変わった理由は後述していますが、理由の1つとして、サンスクリット語において「ア」は否定語として用いられ、「スラ」は天、いわゆる「神」と言う意味を持つことから『天や神に背く反逆者』としてみられてしまったからです。

「阿修羅」とは?

それでは、阿修羅像のモデルである「阿修羅」とは、何者なのでしょうか。

阿修羅は「三面六臂(さんめんろっぴ/3ちゅのお顔、6本腕)」を持ち、ペルシャなどでは大地に恵みを与える「太陽神」としての神格を持つ神でした。

かつては「アスラ・マズター」と呼ばれたゾロアスター教の最高神であり、太陽や光、もしくは宇宙の創造神として位置づけられていました。「ゾロアスター教」とは主に現在の中東と呼ばれるペルシャやアフガニスタン、イラン周辺の地域で信仰された宗教です。

その後、インドへも伝来しますが、インド周辺地域においてはあまりにも太陽を照りつづけてしまったために大地を干からびさせてしまい、やがて「灼熱地獄を敷いて大地を干からびさせ、生命を途絶えさせる悪鬼」とみられてしまいます。

神話上ではこの時からインドの広く知られる神である「インドラ神(日本では帝釈天が通称)」がこの悪神を成敗するために果てなき戦いを繰り広げるといったストーリーです。

しかし別の逸話(宗教神話)では、この後、お釈迦と出会ってその教えに帰依し、仏法を守護する八部衆(はちぶしゅう/仏法を守護する八人衆)の一柱として善神に生まれ変わったとされます。

なお、インド神話でアスラが描かれていた最初の頃は、1個体の神の固有名詞ではなく、一族の総称であったと考えられています。

これがヒンドゥー教に取り入れられるにあたって「神に反逆する悪い神」という性格が付加されるようになります。ヒンドゥー教ではインドラ神(=帝釈天)が善神とされたため、それに対抗する者としてアスラの性格が悪役として形づくられたとも考えられます。

仏法守護の八部衆とは!

阿修羅は「八部衆」と呼ばれる、仏法守護の神様8人組の一人です。そして、興福寺の阿修羅像もまた、八部衆像のうちの1つでした。

八部衆が誰と誰かということには、いくつかの説があるのですが、興福寺に祀られる八部衆像のメンバーは以下のとおりです。興福寺の像はいずれも国宝に指定されています。

  1. 五部浄(ごぶじょう)
  2. 沙羯羅(しゃがら/さから)
  3. 鳩槃荼(くばんだ)
  4. 乾闥婆(けんだつば)
  5. 阿修羅(あしゅら)
  6. 迦楼羅(かるら)
  7. 緊那羅(きんなら)
  8. 畢婆迦羅(ひばから)

阿修羅は、この八部衆の中でも、もっと古くからいる存在とされています。

阿修羅のいる「修羅界」とは?

阿修羅は「修羅界(しゅらかい)」にいますが、「修羅界」とは人間界よりもさらに下の世界です。阿修羅は修羅界で休まることなく常に戦っています。

休まることなく永遠に戦う・・この様相はいわば「”地獄”より最悪」とも言えます。

そんなことから、仏教における三毒「地獄・餓鬼・畜生」に付け加えられて「四悪趣(しあくしゅ)」という言葉も生まれているほどです。

しかし釈迦の教えに帰依してからは八部衆のメンバーと共に修羅界から→人間界→そして「天界」へ昇り詰めて仏法を守護する仏として生まれ変わっています。

阿修羅像は光明皇后が母親の冥福を祈り作成した像群のうちの1つ

この阿修羅像の発願者は光明皇后です。光明皇后は聖武天皇の妻ですが、天皇の妻であるという立場以上に、当時天皇以上の権力者であった藤原不比等(ふじわらのふひと)と県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ。または橘三千代)の娘として、天平時代の一大仏教文化を支えた人物です。

藤原不比等は、藤原鎌足の次男です。妻の橘三千代という女性は、天武天皇の時代から、のちの元明天皇となる阿閉皇女(あへのひめみこ)に仕えたと考えられており、この功績から藤原不比等ー橘三千代は天皇家から非常な信頼を受けます。また他にも、藤原不比等の娘であった宮子が文武天皇の妻となり、藤原姓を名乗る権利が藤原不比等の子孫にのみ与えられるようになります。この、藤原不比等の娘が光明子、後の光明皇后です。

このような背景があり、光明皇后は絶大な背後権力をもって、夫である聖武天皇の政権を支えました。仏法への帰依も夫に劣らずあつかったようです。

光明皇后の母である橘三千代が733年(天平5年)に亡くなり、光明皇后は母の菩提を弔うために、興福寺に西金堂を建立し、その内部に御本尊として釈迦如来像、近侍として八部衆、十大弟子像等、数多くの仏像を造らせ、祀りました。このうちの1つが阿修羅立像です。


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興福寺「阿修羅立像の特徴と見どころ」

「三面六臂」に秘められた秘密

「六臂」の意味

六臂」とは、「ろっぴ」と読み、これはローソンの店内に設置されている機械・・ん?あっ!失礼を。オホ。・・こホンっ!

六臂の「臂」は「ひ・ひじ・うで」と読みますので、これに「六」を合わせることで「6本の腕」と解釈されます。

三面

説明するまでもありませんが、三面の「面」とは「顔」のことです。すなわち「三面」で「3つの顔」と解釈されます。

通常、阿修羅像は正面から見るケースがほとんどだと思われますが、ちょっと角度を変えて斜めから見て阿修羅像の左右の顔をご覧になってみてください。

3つそれぞれの顔の表情が少し違っていることに気づきます。

なお、阿修羅像の顔が3つある理由は上述したように「修羅界→人間界→天界」へと昇りつめた様子を表現しています。すなわち、それぞれの世界にいたときの顔が表現されています。

3つの顔の意味

前述したように阿修羅像にはそれぞれ3つの異なる表情の顔を持っており、これらの顔は「修羅界→人間界→天界」へと昇りつめた様子を表現していると云われますが、他にも「少年期→青年期→成人期」を表現しているとも云われます。

これら3つの顔を分かりやすく示すと以下のようになります。

向かって左側の顔「修羅界にいる時の顔(少年期の顔)」

「クっソ〜このアホほんま。いてまうド、コラぁ!」

修羅界にいるときの顔は、眉間にシワがよって、唇をかみしめている様子がうかがえます。頬も吊り上がりお目目にも怒りがにじみ出ています。

これは自我を抑えきれない、自我のまま生きている様子を表現しています。毎日、修羅界で戦闘を繰り広げているので、「相手をブチのめす!」といった心情がにじみ出ています。

向かって右側の顔「人間界にいる時の顔(青年期の顔)」

「今日の晩メシなんにしょうかなぁホンマ。また納豆にネギいれてシュウマイ焼いて食おか。。」

向かって右側の顔は人間界にいるときの顔とされています。上記の修羅界のときよりは若干、顔の表情が穏やかです。眉間はわずかにシワが寄り、目はするどく相手をにらみ散らし、唇も尖らせています。

しかし何かに耐え忍んでいるようにも見えます。

これは「暴れまくりたぃんじゃぃ!」オラぁぁぁぁ!!コラぁぁぁ!! ほぅ〜・・アチョ〜!!アタァ!!!・・。・・・。

・・などといった自我を抑制することができるようになったことを示唆しています。..こホンっ。

正面の顔「天界にいる時の顔(成人期の顔)」

「心の声:(はっ!しもたぁっ!鼻毛1本飛び出たままやった!うぉぉぉぉ)」

おそらく、あなたも知っている「あの顔」です。あらゆる阿修羅像の写真では、おおむねこの顔が映し出されています。

正面の顔は天界にいるときの顔とされています。大きな特徴としては、少し見えづらいですが口髭を生やしています。さらに遠くを見つめる目線をしています。これらが示していることは「仏になって悟りを得た」ことを表現しています。

阿修羅像が履いている草履(ぞうり)

阿修羅像は草履を履いていますが、この草履は「板金剛(いたこんごう)」と呼ばれる草履を履いています。「板金剛」と付されるだけあって「この草履は強くて壊れない」という意味があります。

阿修羅像のズボン?スカート??

光明皇后が母親の冥福を祈って造らせた仏像とも云われますが、このように八部衆の中では唯一、非武装の上半身裸身でズボン?スカート??を履いている姿で表現されています。一説では古代インドの神様として表現されたので、このようなズボン?スカート??を身につけているとも考えられています。

腕の装身具

阿修羅像の特徴の1つに腕や手首に装身具を付けています。古代インドの王子が身につけていた装身具を表現したものが阿修羅像にも付けられています。

これらは阿修羅像が人間界にいるときも、単にそこらをホゲぇ〜っと歩いている普通の人間ではなく、身分が高かった尊い存在であったことを強く示唆しています。

上半身の着衣

この阿修羅像は「条帛(じょうはく)」と呼ばれる衣を身につけています。これらの衣は阿修羅が八部衆の一尊であることを示唆しています。

髻(もとどり/髪型)

阿修羅像の髪型は頭上で束ねられている上、高さがあります。さらに根本部分で2箇所結んでいます。これは「垂髻(すいけい)」と呼ばれる髪型です。まさに本像が仏であることを示唆する要素の1つです。

何も持たない6本の手

見どころの最後に、阿修羅の6本の手に注目してみましょう。

6本ある手のうち、中央の2本は合掌していますが、残りの4本は何も持っていません。阿修羅像の場合、興福寺のものではない阿修羅像は戦神として、手に剣や棒といった武器を持っていることがありますが、興福寺の阿修羅像は手ぶらです。手ぶらの阿修羅もまた、戦を捨て、仏に帰依する心を表していると伝えられます。

阿修羅像は実は弓矢と日月を持っていた!?

興福寺の内部を絵図に書いて表現したと伝えられる『興福寺曼荼羅』には、上の図のように阿修羅が描かれています。この阿修羅、表情は穏やかながら、手に何か持っているのが見えません……か?

現在、京都国立博物館が所蔵している『興福寺曼荼羅』によれば、阿修羅の高く掲げられた両手には、向かって右側に太陽が、向かって左側に月が捧げ持たれています。阿修羅の6本の手のうち、高いところにある2本の両手は日月を捧げ持つ手だったのです!

しかし一体なぜ、太陽と月を捧げ持っているかというと、これは「昼夜を問わず仏法を守護し、仏に帰依する」ことを示しているとも言われます。

また阿修羅像を見ていると、左右それぞれ、真ん中の高さにある手は、不自然に曲げられている……と思うことはないでしょうか? この両手には、向かって右側に弓を、左側に矢を持っていた……という説も残されています。

太陽も月も弓矢も、今では失われてしまっただけで、過去には像が実際に持っていたもの、とする説も濃厚なのです。

えぇっ?!「阿修羅像のお顔と腕はセットになっていた?!」

なんとぉぅ〜〜〜〜!!実はこの阿修羅像の「腕」と「3つのお顔」は、以下で解説するように「セットになって造立されていた」と、すれば驚かれますでしょうか。

修羅界にいる時の手

修羅界にいるときの手は両手を頭上に高く上げて手の平を広げている手です。今は何も持っていませんが、かつては阿修羅らしい強力な武器を持っていました。その武器は、「日輪(にちりん)」と「月輪(がちりん/げつりん))」と呼ばれ、日輪は左手に持ち、月輪は右手に持っていました。

日輪とは太陽を呼びせて「日食(にっしょく)」を起こさせる武器であり、月輪とは「月蝕(げっしょく)」を引き起せる強力な武器です。阿修羅は太陽神なので、太陽を自在に操ることができるとされます。

人間界にいるときの手

人間界にいる時の手は中段(真ん中)で手首を曲げている両手です。同様に今は何も持っていませんが、かつては右手に「矢」を持ち、左手に「弓」を持っていました。ただし、この弓矢は相手を射撃するために使用するのではなく、戦闘中に相手を牽制して立場を有利にしたり、自らの身を守るために持っていたとされます。

天界にいる時の手

天界にいる時の阿修羅は仏になって悟りの境地にいます。すなわち合掌して「印」を組み、自らは悟りの境地にいることを示し、仏法に帰依したことを強く示唆しています。

一説では、天界で得た「輪宝(りんぽう/円形をした古代インド王の武器)」を持っていたとされる説もあるようです。

阿修羅像には見方があるぅ??

ここまでで理解されたかと思いますが、この阿修羅像は「修羅界→人間界→天界」と反時計回りに見るようになっています。一説ではこの顔の配置の理由は仏教の「右繞(うにょう)の礼法」を中心に考えた配置だとも云われており、「正面の左側の顔から→正面右側の顔→正面の顔」と見るのが正しいとされています。

右繞(うにょう)とは?

「右繞」とは、インド仏教の礼法のことで、須弥壇や堂塔の周囲を反時計回り(右回り)に拝する礼法のことです。これを3回繰り返す(3周する)ことを「右繞三匝(うにょうさんぞう)」と言います。ウんニョ〜..ぃヨぉ〜

拝観する順路もこれに倣っているお堂もあります。ンにぃヨぉ〜


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えぇっ?作られた頃の阿修羅像は『赤色だった』ってぇ?!

知っていましたか?

なんとぉぉぉぅっ!造像された当初の阿修羅像は真っ赤っかの赤色をしていたとすれば驚かれますでしょうか?

現在も阿修羅像に関しての研究は進められており、その過程で作られた当初は赤色をしていたことが明らかにされています。

ただし、赤色といっても真っ赤ではなく、朱色がかかった鬼肌のような赤色になります。

復元された造立当初の阿修羅像の姿

(復元修羅像の写真(画像)は興福寺のクリアファイルより引用)

この復元された写真を見ると条帛は映えるような緑色、さらにスカート??の裏地も緑色の生地が使用されていることが分かります。その様はまるでインドの王族に見えます。

阿修羅だけは「なぜか武装していない美少年像」

興福寺西金堂の阿修羅立像は、他にもう7躯セットになって「八部衆」と呼ばれていますが、八部衆の像のうち、阿修羅像以外は武装像です。

八部衆はそもそも、仏法、ひいては仏さまを守護することが目的ですので、鎧を着用し、戦えるような装備をしていますが、その一方で阿修羅立像だけが、鎧を身につけず、上半身素っ裸で細い身体の線を晒し、柔らかな衣のみで静かに立ちます。

武装していないだけではなく、表情も穏やかなことから、阿修羅立像の表情はしばしば「美少年」と表現されますが、果たして阿修羅は少年なのかどうか。しかし彼の表情には、穏やかという言葉だけでは済まされない憂いが見て取れるでしょう。

これらは現在、興福寺国宝館で目の当たりにすることができますのでぜひ注目してください。

阿修羅像が造られた本当の理由は「懺悔のためだった」?!

阿修羅立像に関しては、もちろんその像容も見どころですが、仏像としての存在背景がさらに見る時の感動を高めてくれるでしょう。

さきほど触れたとおり、阿修羅立像は、光明皇后が母親の冥福を祈って造らせた仏像です。その憂いを含んだ表情には、天平時代の流行とも言える仏教信仰の考え方の1つが宿っています。

光明皇后の時代702年に、道慈(どうじ)という僧が唐に渡り、718年(養老2年)の帰国時に、『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』を持ち帰っています。

『金光明最勝王経』は現在奈良国立博物館に所蔵される国宝で、この経典を元に聖武天皇により、全国に国分寺が建設されたほど、日本に影響を与えた経典でした。

『金光明最勝王経』の基本は、自分自身の罪を懺悔し、諸仏を信仰して身を清めることで、諸仏のご加護をいただいて国を平穏に治めることができる……という治政のための理念です。しかし一方で、これを基にして「懺悔→救済」という1つの思想の流れが確定したとも言えます。

光明皇后は、母親の菩提を弔うにあたって、当時いわば流行していた『金光明最勝王経』の理念に従い、懺悔によって母の霊を安らがせようと、阿修羅立像をはじめとした興福寺西金堂の諸仏を作らせたと考えられています。

したがって、本来は戦神であるはずの阿修羅ですが、興福寺の阿修羅には戦う意志がなく、むしろ内省によって日頃の自分の罪を懺悔し、精神性を高める、静寂を感じさせる顔つきをしていらっしゃるのです。

阿修羅立像をご覧になる時、こうした時代の背景にも思いを馳せつつ、日頃の罪をじっくりと内省してみると良いかもしれません。いやん照れる

阿修羅像が青年姿で造られた本当の理由

天平時代の仏像に多く言われる特徴は、「写実的」であるということです。(これに対して、天平時代よりも前の仏像は、研究史上は「形式的」であると表現されることが多い)

天平仏には、東大寺三月堂の日光・月光菩薩立像に代表されるように、フックラとした顔立ち、肉感的な体つきに威厳のある雰囲気、といった像容のものが多いのです。

 東大寺三月堂の日光・月光菩薩立像に関しては、 東大寺・「伝・日光菩薩立像」・「伝・月光菩薩立像」【国宝】にて詳しく解説していますので、あわせてご覧下さい!

興福寺の阿修羅像、およびその周囲を固める八部衆像は、天平時代の仏像の中でも群を抜いて、写実性よりも精神性が重んじられていると言われています。

阿修羅像が「少年の像」であると言われるのは、成熟していないように見える痩せた体躯に細い手がその穢れの無さを表現しているためです。

通常、考えれば戦の神であるはずの阿修羅がこのように筋力なさそうな体躯をしているはずはありません。写実的に作ろうとするならば、阿修羅像はこのような体躯にはならなかったでしょう。

阿修羅像において重んじられたのは無垢さ、純粋さ、日常に積み重ねる罪をいかに懺悔し、仏への帰依の心をいかに表すかということなのです。

阿修羅から生まれた意外な造語

あまり知られていませんが、「阿修羅」から生まれた造語があります。どんな言葉かお分かりになりますか?

ちょっと考えてみてください。

・・

・・

はい!残念無念!正解は・・

修羅場(しゅらば)」です。

上述したとおり、阿修羅と帝釈天は終わりなき激しい戦闘を永遠と続けています。その戦いの様相を表現した言葉が「修羅場(しゅらば)」です。

よく旦那が近所のスナックに行ってそのスナックのママとおイタしてしまい、そのおイタが嫁ハンにバレてしまって・・このとき旦那がよく言うセリフが「今、嫁と修羅場や。今回ホン〜〜マっ、ヤバい。やばやばヤバ吉やわ。」すなわち「修羅場」です。

日本全国の旦那さん、嫁には触覚と似たようなものが付いているのでご注意!(おイタはすぐバレる)

阿修羅像の造立方法

阿修羅像は以下のような方法で造立されたことが明らかにされています。

  1. 木材を切り出して、体躯を支えるための芯木(骨組み)を作成
  2. 上記、骨組み(芯木)に粘土を盛り付けていき、体の形を造る
  3. 木屑漆と麻布を粘土の上に塗り重ねて外型を整えて乾かす
  4. 外型が固まったところで体躯の弱い部分に穴をあけて、余計な粘土や骨組みを取り出す
  5. 体躯が崩れそうな部位に、改めて支え材を入れて骨組みに組み込む
  6. 穴を開けた部位に木屑漆を盛り付けて塞ぐ
  7. 表情や瓔珞(ようらく/装身具)などの細かなデザインをしながら、外形を整えていく
  8. 完成

阿修羅像にX線を用いて判明した事実とは?

この阿修羅像は「X線CYスキャン」を用いた調査結果によれば、上部の中心となる芯木と、肩部分から下部分の両側の芯木の構造は、同じ国宝館に安置される「十大弟子像」と同じだということが明らかにされています。

⬇︎阿修羅像の骨組みを再現した模型

画像引用先:観仏日々帖

しかし、これらは板を貫いて接合される様式ではなく、肩部分と脇腹に据えられた横木に釘を用いて留めただけの、意外にも単純な構造を用いて造立されており、さらに腰の前後にまたがった横材は他の材と接合されず、独立して据えられていることも明らかにされています。

これらの事実から浮き彫りになる事実とは、本像は芯木と表面に使用された木屑漆や麻布などのみで支え合いながら辛うじて立っているとも言えます。1300年の時を経てきたとは思えないほど華奢な身体が見事に直立しています。

ただ、あまりにも単純な作り方であることから、これは造立された当時の技術不足だったのか?あえて単純な方法を選択して造立されたのか??・・などという疑問が生じてくるということです。

もし、当時の技術不足で造立されたとすれば、造立年割り出しの判定材料にもなります。ちなみに阿修羅像の研究は今現在も進行中とのことです。ウフ

創建当初は合掌していなかった??

この阿修羅像の向かい見て左側の腕(阿修羅像から見れば右腕)のおよそ肘から先部分は1902年〜1905年(明治35年〜38年)の修理において再現されて付属されたものです。

実は、創建当初の腕の形状は謎のままでしたが、当時の調査結果から「合掌していた可能性が高い」ということで、あえて合掌の形で据えられていました。

しかしここで生じる疑問とは、「創建当初は本当に合掌していたのか?」という疑問であり、「本像が合掌していなかった」という説が唱えられていたのも事実です。

しかし2009年に開催された「国宝 阿修羅展」の時の「九州国立博物館(福岡県太宰府市)研究チーム」による右腕のX線調査によれば、「本像は創建当初から合掌していた可能性が極めて高い」という結論が出され、今日に至っています。


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阿修羅像参拝のご利益

阿修羅は、神話上紆余曲折はありましたが、現在では仏法を守護する戦士の一人として祀られ、興福寺の阿修羅像にしても深い信仰を集める存在となっています。そんな阿修羅像、ご参拝によってどのようなご利益を期待できるのでしょうか。

ズバリ!阿修羅像のご利益とは『ない』という見方もされるということです。

詳しく申せば、神仏信仰には様々な御利益が期待されるものですが、阿修羅像に関しては、基本的に実益(現世利益)を期待するのは少々俗っぽすぎるのでは、というのが当編集部の見解ではあります。

深い精神性を表現した阿修羅像は、ご尊顔を拝見し、見る者がひたすら自らの罪を懺悔し、内省するために造立されました。すなわち阿修羅との出会いは、霊性の高い究極の自分磨きに匹敵します。自らの日常を省みて、懺悔すべきところを懺悔し、修正すべきところを修正することこそが御利益です。

……が! その結果として人生にさらなる飛躍を遂げることができたり、自分が選ぶ道を見極めることができたり、きゃわいい恋人と出会えたりするかもしれませんので、阿修羅像の御前にて、しっかりと猛省してまいりましょうッ!

ところで……「脱活乾漆像」とは?

「脱活乾漆像」は、仏像の作成方法の1つです。「だっかつ かんしつぞう」と読みます。

「脱活」とは、「中身を抜く」という意味です。「活」の文字には「中身」という意味はありませんが「生命」という意味はあります。中の大事な部分を脱してしまう、ということから「脱活」と称するものでしょう。

一方、「乾漆」とは、「漆を乾かす(乾かして作る)」という意味のある言葉です。

「脱活乾漆像」の作り方を簡単にご紹介しますと、まず芯木(「心木」とも書く)に粘土を付けて、塑像を作ります。塑像の上から、漆に浸した麻布を巻き、よく乾燥させます。乾燥すると、漆はカッチカチに固まりますが、さらに上から漆の布を巻き、乾かし、巻き……これを数度繰り返すと、中身の塑像を崩して抜いても、像の形が崩れないだけの強度を得ることができます。

充分に漆が乾いたら、立像の場合は背中を開き、中の塑像をくり抜きます(脱活)。抜いたままにしておくと、漆が縮んで像が凹んでしまいますので、木組みの心棒を中に入れて、収縮を防ぎます。

ここまでできたら、木糞漆(こくそうるし)と呼ばれる、漆と木くずを混ぜたほどよい硬さのペーストを塗りつけ、像表面の細工をしていきます。表情や飾り、衣服のひだなどはこの段階で作成されています。最後に、木糞漆が完全に固まった後、極彩色を施して完成です!

【補足】日本最古の阿修羅像は興福寺・阿修羅立像ではない

今日に至るまでの一般的な認識から、この興福寺阿修羅立像が日本最古の阿修羅像のようにみられていますが、日本最古の阿修羅像は法隆寺・五重塔の初層部に安置される「阿修羅座像【国宝】(塑像)」です。

【補足その1】興福寺・西金堂の仏像配置図

上の図は2017年に、興福寺の仮講堂にて再現公開されていた、興福寺西金堂内の仏像配置図です。

御本尊である阿弥陀如来像の左斜め前に、阿修羅像が配置されていることがわかります。この時の配置を写真におさめたものが以下となります。

左側の柱の後ろに、阿修羅のお姿を拝見することができます。

先出の『興福寺曼荼羅』では配置が違います(上図、赤四角部分が阿修羅)。

【補足その2】興福寺西金堂の焼失の歴史・そして阿修羅はなぜ残ったのか

興福寺西金堂は734年(天平6年)に建立されてから、江戸時代までに4度焼失しています。最初に焼失したのは1046年(永承元年)に起きた火災で、興福寺の北円堂と蔵を残して全ての伽藍が焼け落ち、大きな被害をもたらしました。

その後も幾度かの火災と戦火が興福寺の伽藍を見舞います。最後には1717年(享保2年)の火災で西金堂が焼け落ち、その後は資金繰りの面から再建されないまま現在に至っています。

さてそれまでは、西金堂は焼け落ちるたびに3度にわたり再建されてきたわけですが、その中で阿修羅像はなぜ今に至るまで、天平時代の威容を残し続けることが、できているのでしょうか。

その秘密はこの記事の冒頭で少し触れました、阿修羅像の制作方法「脱活乾漆像」にあります。脱活乾漆像は、その制作方法の特徴によって内部が空洞になっています。つまり、非常に軽量タイプの仏像であるため、西金堂に存在していた八部衆像をはじめ、興福寺の数多くの仏像が火災や戦火にあたって素早く運び出され、素晴らしいお姿を現在に残すことを可能にしたと考えられています。

残念ながら西金堂は再建の目処がなく、現在は興福寺国宝館にて、阿修羅像のご尊顔を拝見することができます。

興福寺・国宝館の場所とアクセス(行き方)

阿修羅像が収められている興福寺国宝館は、近鉄奈良駅から徒歩7分の位置にあります。地図は上図をご参照ください!

  • 最寄りバス停:県庁前バス停

興福寺・国宝館の拝観料金・営業時間・定休日

国宝館では別途、入館料金が必要になります。

基本入場料金

  • 大人(大学生):700円
  • 中高生:600円
  • 小学生:300円

割引など

団体割引(30人以上)
  • 大人:600円
  • 中高生:500円
  • 小学生:200円
身障者割引
  • 大人:350円
  • 中高生:300円
  • 小学生:150円

以下、東金堂との共通券もあります。

国宝館・東金堂連帯共通券(個人・団体共通)

  • 大人(大学生):900円
  • 中高生:700円
  • 小学生:350円

開館時間(営業時間)

  • 9時~17時まで(入館受付は16時45分まで)

定休日

  • 年中無休

興福寺・国宝館の問い合わせ先

住所:〒630-8213 奈良市登大路町48番地
電話番号:0742-22-5370(国宝館)

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