奈良の「鹿の角切り」はいつから始められた??「角切りの歴史と起源」

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奈良の「鹿の角切り」はいつから始められた??「角切りの歴史と起源」

鹿の角きりが始まったのは1672年!

鹿の角きりが始まったのは1672年(寛文12年/江戸時代)のことです。

当初は奈良奉行所や興福寺が執り行う奈良恒例の行事でしたが、行商人や御師などの旅人を通じてやがて日本全国に知れ渡るようになり、幕末を迎える頃には奈良の観光行事としてスッカリカンカンと定着してしまいます。

鹿の角切りが行われた理由

鹿の角切りが行われた理由は、当サイトの別ページ「【奈良の行事】鹿の角切りをする理由…日程・時期・場所は?痛いのか!?英語で説明する方法などでもご紹介していますが、江戸時代中期を過ぎると、ならまちも奈良晒や酒造など産業が発展し、次第に人口が増加していきます。人口が増加するという事は飲食店や居酒屋などの商売をするお店も増えますので、その相乗効果によってさらに人口が増加します。

特に奈良には京の都(京都)にも劣らない遊郭街が存在したことも理由に挙げられます。

このような背景から、鹿たちが「ならまち」から漂う食べ物の匂いに釣られて、春日山から下りてきていた様子がうかがえます。

そしてこうなれば自然の鹿と人間たちの間に摩擦が生じるのは時間の問題です。察しの通り、ならまちへ下りてきた鹿たちは店先の燈籠をひっくり返したりしてボヤ騒ぎを起こしたり、特に発情期と思われる鹿は頻繁に人に襲いかかるわけです。

奈良奉行所がまとめた報告書によれば年間およそ23人〜45人もの人が鹿の角で刺されたりするなどの被害記録を残しています。

つまり、毎月およそ2人〜4人くらいの人がケガをしていたことになり、これらケガ人は年々、増加していったそうです。

そこでならまちの人々は奉行所へ上申し、困り果てた奉行所は、当時、奈良の鹿を管理していた興福寺・一乗院門跡へ何らかの対策を講じることを上申します。

そこで一乗院が採った対策は、興福寺大湯屋付近に垣根を設けてそこへ鹿を捕獲してきて閉じ込めてしまおう・・という対策です。

順調に事は運び、いざ、鹿を閉じ込めたところ・・なんとぉぅ!垣根があまりにも狭すぎたために今度は鹿同士が角でアタぁ〜ックし合ったために落命する鹿が出てしまいます。

困り果てた興福寺と奉行所は最後の対策として閉じ込めた鹿の角を切ることを考えます。これが今日に見る奈良名物「鹿の角切り」の起源です。

この後、珍しさもあって角切りを見学しに訪れる人が増加し、やがて奈良の恒例行事として定着していきます。この動きに乗じ、ならまち内にある春日大社御旅所の中などでも鹿の角きりが行われるようになったと伝えられています。

しかし、明治初期になると野犬や狼に咬殺されたり、疾病が蔓延したなどの理由で鹿の頭数が激減してしまい、角を切る雄鹿がいないなどの理由からいったん中断してしまいます。

ふたたび角切りが再開されたのが明治時代中期で、春日大社の参道および境内で角きりが再開されました。しかし大正13年10月から昭和4年まで再び、角切りが中断されます。理由は当時の県令であった「成毛氏」が、角切りでもがき苦しむ鹿を見て心を痛め、中断してしまったからです。

しかし、神鹿会の資金難などの理由から角切りを有料制にして再び角切りが再興される案が持ち上がり、1929年(昭和4年)に現在の場所(鹿苑)にて再開され、今日に至っています。

現在では神鹿保護の資金源としてはもちろんのこと、観光事業の一環として、また以前と同様に人々の安全性を保つために鹿の角切りは継続されています。

角が切られた鹿の頭数一覧

※よこにスクロールできます。※

1672年(寛文12年)145頭 1685年(貞享2年)166頭 1698年(元禄11年)161頭 1711年(正徳元年)151頭
1673年(寛文13年)109頭 1686年(貞享2年)173頭 1699年(元禄12年)155頭 1712年(正徳2年)157頭
1674年(延宝2年)158頭 1687年(貞享3年)173頭 1700年(元禄13年)147頭 1713年(正徳3年)160頭
1675年(延宝3年)120頭 1688年(貞享4年)180頭 1701年(元禄14年)138頭 1714年(正徳5年)166頭
1676年(延宝4年)141頭 1689年(元禄2年)191頭 1702年(元禄15年)130頭 1715年(享保元年)134頭
1677年(延宝5年)149頭 1690年(元禄3年)200頭 1703年(元禄16年)120頭 1716年(享保2年)157頭
1678年(延宝6年)141頭 1691年(元禄4年)178頭 1704年(宝永元年)135頭  
1679年(延宝7年)143頭 1692年(元禄5年)174頭 1705年(宝永2年)143頭  
1680年(延宝8年)151頭 1693年(元禄6年)179頭 1706年(宝永3年)160頭  
1681年(延宝9年)150頭 1694年(元禄7年)180頭 1707年(宝永4年)160頭  
1682年(天和2年)154頭 1695年(元禄8年)180頭 1708年(宝永5年)170頭  
1683年(天和3年)166頭 1696年(元禄9年)156頭 1709年(宝永6年)153頭  
1684年(貞享元年)160頭 1697年(元禄10年)161頭 1710年(宝永7年)161頭  

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えぇっ?!かつて角切りは奈良町の中で行われていた?!

現在では鹿の角切りといえば鹿苑で行われる行事として有名ですが、角切りが開始された江戸時代では、かつて奈良町に存在した「餅飯殿町(もちいどのまち)」「東向き町」「角振町」「橋本町」「東寺林町」「木辻町(遊郭街)」の6箇所の町の中で行われていたようです。

この中でも特に際立って大賑わいだった町が「餅飯殿町」と「奈良奉行所前の広場」です。奉行所前の広場の檻には奈良公園でもっとも大きな雄鹿が入れられ、餅飯殿町で角切りが行われる際は、奈良中の若者たちが徒党を組んで奈良公園に出かけて、雄鹿を探して町内まで連れてきたようです。

町内に連れて来られた鹿は、町内にいくつか指定されていた鹿を一時的に入れておく檻(おり)まで引っ張って来ます。

檻の場所は町内にいくつか設けられており、たとえば現在、春日大社の「若宮おん祭」で使用されている「大宿所」もそのうちの1つです。

大宿所に入れられた鹿は、暴れても逃げないように木戸などでキッチリと封鎖され、さらに街全体をも木戸を設けて町中から鹿が逃走しないようにしたそうです。

実は、かつて「ならまち」と呼ばれた敷地の内外の境目には、「鹿垣(しかがき)」と呼ばれた「土塀」や「木柵」が張り巡らされていたのですが、明治時代になると、それら土塀や柵が老朽化によって半壊し、鹿が自由に出入りできるようになります。

このため、農作物を食べ荒らしたり、逆に鹿を密猟する人も出没し始めたそうです。

角切りの1週間前にもなるとそれぞれの町内は慌ただしくなり、人々は角切りに備えて家と家の隙間に木板を設置したり、はたまた、親戚などを迎える準備をしたそうです。なんといっても奈良の鹿の角切りは日本全国に知れ渡るほどの大行事だったようで、この日を迎えるに際して、浮き足立ってルンルン気分でオネショしゃうワヨ的なほど気分は高揚したようです。

そんなこともあり、概ねどの家庭でも日本全国から親戚という親戚を呼び寄せ、正月並みに酒肴を用意し出迎えたとのことです。

そしていざ、角切りが開始されると大宿所などの鹿を閉じ込めておいた場所から鹿が町中に解き放たれるのです。

解き放たれた鹿を追いかける若者たち・・。そして民家の中から親戚らと共にその鹿を追いかけ回す若者たちの様子を観覧し歓喜に沸き立つ人々・・。まさに一種のお祭り騒ぎだったようです。

かつて奈良の鹿を管理する特別の職業があった?!

現在、奈良の鹿は天然記念物にも指定されており、さらに奈良の鹿愛護会によって保護されています。しかし、たとえば江戸時代などは、いったい誰が鹿の管理をしていたのか想像できますでしょうか?

奈良の鹿は江戸時代を迎える以前から奈良の鹿は「神鹿(しんろく)」と呼ばれ、人々からは崇拝の対象として見られていました。

すなわち今より神仏崇拝が盛んだった時代に神格視されていたことにより、これが乱獲されなかったもっともな理由になりますが、江戸時代になると「えた」と言う身分の低いものが「鹿守り(しかもり)」という職業に半ば強制的に就かされ、年老いて弱った鹿や死鹿(死亡した鹿)などを世話したようです。

半ば強制的に鹿守りに就かされた理由は、当時、奈良市街を統治していた奈良奉行所の命令によるものであり、身分の低い者が困窮しないための対策でもありました。

しかし明治時代になると中世以降、存在した身分制度がなくなります。すなわち、鹿守りの職業も終焉を迎えたワケです。その後、1891年(明治24年)7月18日に「春日神鹿保護会(奈良の鹿愛護会の前身)」が設立され、冒頭でもお話ししたように1929年(昭和4年)になると現在の春日大社参道いにある「鹿苑」で角切りが執り行われることになります。

ところで・・江戸時代の鹿の角切りの費用は誰が捻出した?

ここまで読み進めれば角切りの費用は奈良奉行所や興福寺が折半によって捻出していたという勝手な想像が思い浮かびますが、実はそうではなく、ぬぅあんとぉぅ!!

ならまちの人々が折半して共同出資するという形で捻出したとすれば驚かれますでしょうか。

詳しくは鹿の管理権は興福寺が持ちましたが、鹿の檻の設営や鹿を檻まで連れてくる役目など鹿の管理に関する費用は奉行所や興福寺が捻出したようです。ただし、鹿の角切りの道具については、ならまちの住人たちの共同出資によって賄われていたようです。

角切りの日程や切り取られた角がどうなるのか?

角切りは毎年、秋口に行われていますが、角切りの日程や切り取られた角がどうなるのか?はたまた鹿の角の成長については、以下のページにて詳しくご紹介しています。

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