【元興寺】国宝・極楽坊本堂(極楽堂・曼荼羅堂)は南都浄土教発祥の聖地!

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【元興寺】国宝・極楽坊本堂(極楽堂・曼荼羅堂)は南都浄土教発祥の聖地!

創建年

不明(木材は588年頃のものであることがわかっており、飛鳥から移築されたものと確定している)

改築年

1244年(寛元2年)

建築様式(造り)

  • 鎌倉時代新和様
  • 東側正面、桁行および梁間いずれも6間(およそ11m)
  • 一重
  • 正面一間通り庇付
屋根の造り

  • 本瓦葺(行基葺き)
  • 寄棟造(妻入)
発願者(建てた人)

蘇我馬子

極楽坊本堂の読み方

ごくらくぼうほんどう

別名

極楽堂(ごくらくどう)あるいは曼荼羅堂(まんだらどう)

重要文化財指定年月日

1901年3月27日

国宝指定年月日

1955年2月2日

元興寺「極楽坊本堂」の歴史・由来

元々は飛鳥に建てられた「法興寺」の建物!

元興寺は、都が飛鳥から平城京に移転した折に、飛鳥に存在した「法興寺」の建造物をそのまま移築して造営された寺院でした。

「極楽坊本堂」に関しても、元々はこの飛鳥で建てられたものであることがわかっています。

昭和の大修理で中身が丸見えに!

元興寺は1943年(昭和18年)から大規模な解体修理を行いましたが、その時の廃材は保管され、後世の「年輪年代法」という科学的研究で、切り出された年代が明らかになりました。

その結果、昭和に解体された元興寺の極楽坊本堂の部材は、西暦588年(崇峻天皇元年)頃に切り出された部材であることが明らかになりました。

飛鳥の法興寺は、まさにこの588年に発願された寺院で、『日本書紀』には、590年に法興寺建立のために木材を伐採したという記録が残されているため、昭和に至るまでこの時の部材が残されていることが明らかになったわけです! すっごぉい♥

部材の中には鎌倉時代の木材も含まれており、1244年(寛元2年)に改修したときの木材であることが分かりました。

元々は「僧坊」だった建物が本堂レベルの扱いに!

さてこの元興寺の「極楽坊本堂」ですが、元々は本堂ではなく「僧坊」、つまり、僧たちが住まい、生活する空間であったということが記録により明らかになっています。

僧坊は本来、現在残されている極楽坊本堂の周囲にさらに3棟建っており、その周囲には小子坊と呼ばれる小さな建物が囲むように建っていたようです。但しその頃の遺構はすべて、土一揆などの戦乱によって失われたと伝えられます。

今でも、本堂としての極楽坊本堂の中に、僧坊であった頃そのままの場所が残されており、そこが改築によって、見事に須弥壇に造り替えられています。

この場所は、元興寺でかつて学んだと言われる智光法師(生709年~没年不明)も住まっていた場所であろうと想定されるのです!


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元興寺極楽坊本堂の見どころ……御本尊の「智光曼荼羅」とは!

元興寺は本来、ならまち一帯を境内としていたほどの、非常に規模の大きな寺院でしたが、戦国時代の末期から江戸時代にかけて急速に衰退しました。それまでは「境内」だった所に家が建つようになり、徐々に形成されていった街が、現在の「ならまち」です。

つまり、「ならまち」=「元々は元興寺の境内」だったというわけですね! ひろっ

土一揆によって建物が壊されたり、徐々に勢力を衰えさせていった元興寺ですが、肝心の極楽坊本堂だけは単体で信仰を集め、参拝者が途絶えることがなかったと言います。

さて、それはなぜでしょう?

極楽坊本堂に参拝すればお金がもらえたから?

……。惜しいっ!んなわけなかとですたい

答えは……極楽坊本堂には「智光曼荼羅」があったから、なんです。

智光法師が見た極楽の夢を絵図にした極楽坊本堂の御本尊

通常、御本尊と言えば仏像ですが、元興寺極楽坊本堂の御本尊は「智光曼荼羅(ちこうまんだら)」という絵です。

戦国時代に入ると世情の不安定さから、元興寺の威光は衰えますが、一方でその不安定さから、民衆の極楽に対する憧れの風潮は一気に高まっていきます。そしてこの、極楽信仰の対象となったのが、元興寺の僧坊にあった「智光曼荼羅」でした。

通称・智光曼荼羅は国指定重要文化財で、正式名称を「板絵智光曼荼羅」と言います。

智光曼荼羅というのは、「智光法師」という奈良時代の元興寺の僧侶が、夢に見た極楽を描かせたものであると伝えられています。

戦国時代以降、世情は不安定になり、民衆は仏教における「極楽」の概念に理想を求めるようになりました。精神的な救いを求めた奈良の民衆は、こぞって元興寺の極楽坊に訪れ、智光曼荼羅を参拝しました。

そのために、元興寺の広い境内が徐々に廃れ、住居や店が建てられてならまち化していった後も、元興寺の中で「極楽坊本堂」だけが栄え、やがて元興寺の中心的存在として立ちゆくことになったのです。

極楽坊本堂の屋根「行基葺き」とは何か?

極楽坊本堂の見どころの1つが、屋根の造り「行基葺き(ぎょうぎぶき)」です。

行基葺きとは、本瓦葺きの一種で、飛鳥時代の様式です。元興寺は奈良の建物ですが、飛鳥にあったものが移築されており、極楽坊本堂の屋根は移築当時の姿をそのまま残しているとされる貴重な様式です。行基葺きが屋根として活躍している例は、もはや元興寺が国内唯一なのです!

さて行基葺きの特徴は、紙コップを逆さまにした形のように、下方末広がりになった丸瓦です。

まず、平瓦を葺きます。その上に筒状の丸瓦を葺きますが、丸瓦は末広がりになっているため、紙コップを重ねるように上から丸瓦を重ねていきます。

これと違い、通常の本瓦葺きで使われる瓦は、上方が太く下方がやや狭い形となっています。

行基葺きの名前の由来は、行基がこの瓦の葺き方を発明したと伝えられているためです。

東向きの新和様建築

元興寺・極楽坊本堂は、正面が東向きであることが特徴の1つとなっています。寺院の多くは南面(南向き)に作られますが、なぜ元興寺極楽坊本堂は東向きなのでしょうか。

東向き=西側を拝むため

さきに触れたとおり元興寺極楽坊本堂の御本尊は智光曼荼羅です。

智光曼荼羅には、極楽浄土が描かれており、極楽浄土は仏教の考え方では「西方にある」と考えられてきました。

つまり、智光曼荼羅を極楽に見立てて拝むためには、東側から拝む必要性があったのであり、そのために極楽坊本堂には、東側に智光曼荼羅を参拝するための向拝がつけられたと考えられています。

ちなみに、寺院の向きは、多くが南向きです。極楽浄土を拝むというコンセプトの寺院は、多くの場合、東向きに作られます。

本堂の柱には平安~鎌倉期の貴重な彫刻が!

本堂の柱には、彫刻文があり、アクリル板で保護されています。よく見ないと気付かない可能性もありますので、注目しておきたいところです。

柱刻文のある柱は3本で、内陣を形づくる4本の柱のうち、右の3本です。各柱の刻印文の年代は、以下のとおりです。

  • 一番右の柱……1265年(文永2年)
  • 右から2番目の柱……西面1209年(承元3年)/東面と南面1211年(健暦元年)
  • 右から3番目の柱……西面1222年(貞応元年)+1171年(嘉応3年)/東面1201年(建仁元年)/南面1233年(天福元年)

この刻文の内容は、元興寺極楽坊本堂に寄せられた寄進の記録です。寄進の目的は仏事の費用です。

仏事は古くは貴族によって行われていたものですが、1200年代に入ると庶民も百日念仏などの仏事に参加するようになりました。柱の文献からは、百日念仏として行われていたものが「七昼夜の念仏」に置き換えられたことがわかり、背景には仏事の参加者が増加し、さらに仏事にかけられる費用が減らされたと考えられています。

元興寺・極楽坊本堂の場所(地図)

元興寺の極楽坊本堂は、近鉄奈良駅から徒歩14分ほどの場所にあります。近鉄奈良駅から南下し、猿沢池の横を通りさらに南下します。

元興寺の境内に入れば、本堂である極楽堂は受付後、東門のすぐ正面です。

元興寺・極楽坊本堂のお問い合わせ先

  • 住所:奈良県奈良市中院町11番地
  • TEL:0742-23-1377
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